製造業の技術革新とサービスにおける対応人材の知識の共有について

人手がかかる業務に製品を販売後の顧客サービスがある。製品を使用していると故障などを電話で問い合わせが必要な時がある。既に問い合わせは、カスタマーセンターという部署への連絡となり、最初に自動応答による要件の振り分けが行われる。

実はこの音声が人間味が感じられず、あまり好きではない。その後、電話の呼び出し音が鳴り、決まって「ただ今、電話は大変混み合っています。、、、」と流れてくる。ここまでは、どこのカスタマーセンターでも同じようであるから、きっと同じシステムを各社が導入しているらしい。

 結局は、人による応答でなければ、故障の相談と受付ができないのも共通しているようである。故障の受付に際しては、きっと社内に蓄積された故障事例と対応などが製品製造番号で求まるようになっているのだと思う。その時に現象確認のために、確認操作を促して、実際の電話で症状の把握まで行う企業もある。単に、故障した製品を発送を促して、到着後、修理できるかの判定を行うやり方の企業もある。

 自動車の例で、海外などグローバルに販売する車種が多い。このサービスは、基本的に販売店や修理業者にて行われている。自動車の場合は長期に渡って移動手段がなくなるのが困る為、修理は手取り早く部品の交換を行うことが多い。原因をしっかりと突き止める時間的な余裕はお客様からいただくことはできないのである。
 
 海外で発生した故障が、散発し、広範囲な地域に発生するなどしている場合には、交換した部品を日本に回収し、設計評価部門にて原因調査を急ぎたい。このような場合にも必要とされるのは、現地の販売店や修理業者が把握した故障の内容や、その発生状況である。現地の作業者が見聞きし、その事実を写真に取り、それらをその業務を行う人達の間で常時共有し、故障からの類似性や同一性の判断を行うように働きかける必要がある。もちろん本社のある日本にても同じく行われなければならない。

 このような修理現場と本社との情報共有は、それほど上手く行われているとは思っていない。もし、自動運転車が増え、なんらかの事故や故障が起こった場合には、このようなサービス業務はどうなるのであろうか。自動運転の技術はあるが、異常の挙動などの自動収集はフェールセーフと同じく必要になる。最後に問題になるのは、自動運転車を修理できる人を育成できるのだろうかと言うことになる。

 建設機械業や造船業や鉄道などの自動化も、飛行機のメンテナンスの歴史を参考にサービスの体制は大きく変更する必要がある。サービスの業務にもその知識が必要である。このような知識をどのように整理を行って維持・継承するのかや、どのように理解伝達していくのかは重要なことで、人に依存して過ごせたサービスとは全く異なる方法を安全面を重要視して構築しなければならない。結構大変なことを今後10年で行う事になるのである。

知識の共有とインターネットと教育

本とインターネット情報の関係について思ったことがある。かつて本でしか知ることの出来なかったことがある。それが今ではインターネットから無料で入手できる。喫茶店でふと横の学生を見ると携帯を見ながら、何やら宿題を片付けているようである。英語の文を、google 翻訳してそれをノートに書き写している。失礼ながらその所作に考えている様子が伺えない。

子供達はスマホで算数の答えが分かる。小数点のある割算を筆算で正しく答えなければならない教育は、もう不要なのではないだろうか。考え方さえ理解できていれば十分だと思う。がむしゃらにプリントの計算を毎日繰り返し行う勉強法はいつごろ生まれたのだろうか。少なくとも私はそのような小学校、中学生を経験していない。そもそも問題集は高くて、それほど書店にもなかったように思う。

スマホがあれば、殆どの調べごとはできてしまう今日、その技術の進歩を素直に受け入れて、スマホでできないことを教える教育をすべきではないだろうか。今の大人が考える未来の到達速度よりも、今の子供達の未来は桁違いに速く来るはずだ。一番の違いは情報の入手の容易さと基本的計算と判断ルールと意見の無料化にある。

教育はこのスピードの速さを意識しているだろうか。プログラミング教育そのものも不要になってしまうだろう。英会話の学び方も幼児期から時間数や機会を増やして変更する必要だろう。小学校なら生徒が社会に出る頃の社会を想定して教育をすべきではないだろうか。企業が製品やサービスの競争を先読みするように、子供達の先の未来の社会の姿を見定めなければならない。その上で、教育内容を計画できると良いのだが。

社会のニーズに対して、硬直化した教育では子供達の未来が他国に遅れる。幸い国内でも先進的に取組を始めた学校もある。教育には歴史の認識と未来の予測が必要であり、生まれ出る言葉の先行性と実現性を良く判断して今を生きることの会話ができなければいけない。輸入された言葉に翻弄されてはいけないが、しっかりとその先行性を実現する年表を描けるような人達が増えて欲しいと願うのである。

 本であれば、他の本の内容と結合した新しい意見が登場するまでに何ヶ月も必要なゆっくりとした流れで過ぎていく。しかし今日では、世界に同時配信され、それに対する意見が一気にネット上に登場する。多くの意見を集約する分野とじっくりと研究する分野があるのではないだろうか。そのどちらかを選択するかは、その研究内容によるのだろうか。それとも、これからはネットを利用した情報集約による研究とする方が良いのだろうか。現在を生きる者としては、それが研究と言えるのかなどと、迷うところである。オリジナリティであることの証明がしにくい時代である。

 同じ知識や経験を保有した人達だけで、あるテーマの解決を行うよりも他の異なる知識と経験を保有した人達も含めてそのテーマの解決を行うのが良いのか。近年では後者が良いと世間では言われているように思う。しかし、深い議論を進めるにあたっては、やはり専門家を集めたチームによる解決を行なっているのも事実である。この2つのチームの編成はその解決ステップにより構成メンバーを変えることが常識と言うことのだろうと思う。

 インターネット情報による速成栽培はできないはずだ。本による熟考を通じて得られる考え方とインターネット情報から得られる考え方とでは、自ら産んだ考えと与えられた考えの差で、与えられた考えはそこから一歩踏み込んで考える習慣を持つようにしないと空っぽな思考になってしまう様な気がしている。

 それでも、ITはどんどん先に進んでいく。インターネット情報を生活に役立てる方法を考える必要がある。ITの進歩に一致した生活を行う人もいれば、その進歩より遅れる人もいるだろう。本来、ITは公平に社会に提供され、誰でも等しく利用できるインフラとしての配慮が必要である。インフラは通信だけではないはずだ。この社会インフラが、特定企業の競争だけにおかれているのは、どう考えてもおかしな事と思うのです。

紙の本は無くて良いと思える使いやすいデジタル本への期待

昔と今とでは本の読み方が変わってきている。若い頃は、どのようなことに対しても興味があり、読む本のカテゴリは多かった。推理、歴史、起業、純文学、ハウツー、ものづくり、経営、ベストセラーなどであった。


 現在は、知識に関する本に集中して読書をしている。意識、記号論、知能、教育、文化、情報、言語、知識、創造などを読みたくなる対象となっている。興味が知識というテーマに没入する様になり、実は他の分野に時間を割けなくなってしまったことが理由である。時間が有れば、もっといろいろな分野の本を読みたいと思う。

 本をどのように読んでいるかについてであるが、最近はタイトルと口コミを見て決めている。口コミがなかった頃は書店で必ず手にして購入していた。しかし、最近はもっぱらインターネットで購入している。

電子書籍もダウンロードしてはいるが、圧倒的に紙本が多い。ペラペラめくりによる読書は紙でないと無理だ。気になる記述はイメージスキャナのアプリでスキャナして、本のタイトルと合わせてpagesに保存している。

 後に本を読み返す為のメモにしている。そしてその言葉づかいを忠実に記録する様にしている。同じことを言っていても、言葉づかいにより受ける印象は全く異なるためである。

 読んだ本の意見交換ができたら良いと思う。或いは、できないことの方が良いのだろうか?最近のSNSではオープンになったことにより、知らなければ良かったことも知ってしまう場合がある。知りたくない権利があるはずだ。何でも知らされてしまうと人は安心して暮らせない。

 例えば、AIが特定の人の信用度を点数化することはいかがなものかと思う。そんなこと比較されることを望まない。無神経に決められた点数に公共性はないだろう。企業が内部の指標として持つのはあっても良いが、それが外部に見えるのは、たとえ本人であっても問題がある。そのようなことを知りたくないはずだ。

 本を読んだ者同士で意見交換できたら良いと思ったが、それは知りたくもない意見を聞くことになるのではないかと思う。やはり読書とは、自分の心で何を思うかまでで良く、十分であると思う。他者がその本をどのように解釈して意見を言おうとも無関係なことだとしておきたい。

 今日、インターネットからは見たくもない情報が毎日、執拗にとも思われるくらいに一方的に表示されてくる。このような状態を誰が許可したのだろうか。初期の頃は、ほほうと思って眺めていたが、今日では、もういらないと言う気分になってきた。大人は取捨選択して、読み流すことができるかもしれないが、同じ情報を子供が見ていると思うと心配である。

 情報は自ら取得するようにできないものだろうか。だから、ひっそりと読む紙本を手にし、その時間だけでも、インターネットの余計な情報から離れることができ、安静な時間を過ごすことができるのである。やはり紙の本は無くなって欲しくないと思う。

知識の記録法と曼荼羅への畏敬の念

以前、曼荼羅のように知識の記録方式を描いて見ようとしたことがあった。なかなか体系的に整理ができていないので、全体が納得できず、部分も部分との関係においてすっきりとしなかった。かつて考えてきたことを全体図にしようと挑んだのであるが、結局は未完成のままである。そろそろ再チャレンジしてみようと思う。

 何を描こうとしていたかであるが、それは漠然としたテーマでは難しいので、グローバルものづくりというテーマでその中に必要であるはずの(存在するはず)言葉を書き始めたのである。しかし、それには目的語が必要となり、良い品質を低コストで生産するグローバルなものづくりということにしたのである。そうすることで、かなり範囲が縮まるので、少しは整理できそうに思った。ところが、それほど簡単ではなかった。

 例えば、PPのスライドの一枚、word の一節、メモの数点、写真の数枚を作図ソフトの中で1枚に構図を考えて配置して、それぞれの素材の関係についての線を引きながら、関係についての観点を記載する。その1枚に記載されてたものを全て選択し、グループ化して別のシートに縮小して貼り付ける。同じことを他のPPやwordの一つのテーマについても行い、同じように全体をグループ化して縮小し、先ほどの縮小したシートの中に考え方の構図を決めて配置する。

 すると1枚のシートにぎゅっと詰まった情報の塊が完成する。この1枚を見るだけで、PPやword に分散記載された考えに目を向けることができるようになる。どのファイルに、どのシステムに何を書いたかをすぐに忘れてしまうことを解決しなければ、今後の思考が重複や不一致など非効率になることを心配しているので、一度まとめた絵にしてしまうことをやってみた。人に物事を説明するには部分的に行いストーリー性を重視するが、記録するには、全体が一目で見られるようにしたい。

 これはこの時点では良かったのであるが、その後は、時間経過と共に思考の変化や成長をメンテナンスができず、面倒なのでやめてしまった。無謀なことであった。浅はかな私のチャレンジは失敗であった。最後はうまく一枚の絵に描けないのであった。

 記号の曼荼羅の図はわたしには読み取れない。そして作図のルーティンがあることとその意味も理解できていない。しかしかつての偉人は、この図を用いて、何百何千もの悟りを説明したのだろう。そのカテゴリーは幾多にもわたるものであったのだろうと思うと畏敬の念がやまない。

 一つ一つを別々に表現するのではなく、まとまったイメージにして、体系化すること、記憶することができる。それぞれの仏菩薩の真理の位置付けがなされることにより、記憶できるらしいのである。絵と思想が連想されるようにできていることは、人の教えを受け継いでいく、そして進化させていく手法として、知識の記録方式の研究には興味を持たざるを得ない。

製品の取説にみるデジタル化の氾濫

取説、取り扱い説明書についてその不便さを紹介したい。昔は取説は全て紙で作られ、購入した製品には厚い取説が同梱されていた。いつしか、この取説がデジタル化され、インターネットで検索する方法に置き換えられた。私の経験からすると、この変化は初代IPHONEの発売からであった様に記憶している。それは、手にしたIPHONEの箱には数ページの紙しか入っていなかったことと、その使い方をインターネットで調べて理解した記憶が鮮明に残っているからである。

 その後、購入した製品は紙による取説がなくなり始め、今では、それが当たり前のこととして社会は受け入れている。しかたなく、受け入れているだけと思うが。しかし、デジタル化されインターネットで検索できる様になったことで、便利なこともある。それは、分厚い取説を家庭に貯蔵する必要がなくなったことだ。最初は読むが、一旦使い方を覚えてしまうと邪魔になるものであった。

処分してしまうと、問合せ窓口に電話して聞くしかなかった。この問題がなくなり、いつでも、古い機種の取説でもインターネットで調べることができる様になったのである。これは大変良いことだと思う。これが知識の記録方式の一例である。知りたい時に即時に知ることができることを満足させる方式であるからだ。

 取説は製品に関する知識をまとめたものである。その取説がインターネットに山の様に存在している。この様な状況となっているのであるが、結局は、メーカ別にサイトは分かれていて、同じ様な製品を比較するにしても、このデジタルデータは全く効率的に収集できないのである。

本来であれば、取説レスで誰でも操作できる製品であることが望まれるが、身の回りの製品がほぼ自動化されることは遠い未来であるだろう。デジタルデバイドが問題となっているのだから、せめて、取説の記述をルール化し、目的からもっとスムーズな検索ができる様にして欲しいものだ。

 取説には絵が必要である。絵がなければ取説は役に立たない。絵は、人に分かりやすく説明するために、一番簡単な方法であるからだ。絵を一切使わないで、相手に説明をするのは不可能である。メールを使っているのは、絵のない取説を使ってコミュニケーションを行っていることと同じくらいに伝達が難しいということを理解すべきである。絵葉書は単なる文だけの葉書よりも、その気持ちを共有することがしやすいことと同じである。

 私たちは、IT技術の波に漂っている。どこにいるのかも、どこに向かおうとしているのかにおいても他者であるIT技術の変化に委ねてしまってはいけない。IT技術の波の上で、その先を見定める役割と責任がIT関係者には必要であるのではないだろうか。

デジタル化することだけを目的にしていると、波に漂うだけの非生産的な混沌とした情報社会に囚われてしまうのではないかと危惧している。デジタル化した先にどのようなことについて、社会として価値あることが行えるようになるかを考えて進まなければならない。それは一体、この国で、誰が牽引役になるのだろうか。