美術館に行くことも好きだ。なぜかと言うと、時間を忘れることができるからだ。嫌なことも忘れて絵画を見ていられるからだ。映画では、そうはいかない。美術館で絵画を眺めていると、以前は、どのような筆づかいなのかや、色彩や構図が気になっていたが、最近では、ぼやーっと眺めていることができるようになった。それでも、その絵画の時代や画家の経歴などの解説は絵画の理解に必要である。
絵画だけ見ていても画家の名前が分からないと何故か記憶に残せない不安を感じるのは私だけであろうか。絵画だけを見て楽しめるようになるには、まだまだ沢山の絵を見ないといけない。絵だけ見るだけでは、その絵についての無知が故に、充実感が足りない。絵と解説が私には必要で、そうでなければ、自分の満足感が得られないように思う。
絵は比較して見るものではないと思う。それぞれが独立している芸術であり、1枚の絵だけにぼーっと眺めているだけで良いのかも知れない。有名な絵画の展示があると大変多くの人が絵の前に密集し、数秒でその前を立ち去らなければならないようなことは何故起こるのだろうか。
ルーブル美術館などは、もっとゆったりと鑑賞できるのに何故日本の美術館はこうなのだろうか。展示物の多さと、展示会場の広さが、ゆったりと観れる時に観れば良いと言う余裕を与えてくれるのかも知れない。
絵画を見るが写真は撮らない。昔は撮ったこともあるが、それを持ち帰って見ても何か感じるものがない。その時だけモニターに写っているのを見ても、単なる映像にしか感じない。絵画を見ている気にならない。
もう一つの場面として、私は有名な画家の絵画の中で印刷物を額に入れ、自宅の廊下などに飾っている。これは、すごく満足感がある。気に入った絵は、いつでも眺めることができる場所に置いておきたいのだと思うからだ。だから、パソコンの電源を入れて、さあ見るぞ!という心理では絵画は楽しめない。いつも近くで見えていて欲しい存在だと思う。
今はあまり見ることがないが、どこかの局で、アートシーンという番組があった。これはTVの番組で、美術館の中の絵画を、ゆったりとした口調で、強制的ではない感想を主に柔らかに語るような解説が気に入って見ていたことがある。これは、一緒に美術館にいるような気分になるから心地良かった。
本物であることの美術館。是非、一度でもいいから見てみたいという欲求が強い鑑賞。本物ではないが、気に入って物を近くにおき眺めていたいという満足感でのいつでも鑑賞。TVや動画による解説付きの絵画を見て、知的な好奇心による知りたい鑑賞があるが、絵が好きではない人にはどうでも良い話ですね。
人は行動しなければ、何も始まらない。しかし、行動の前に、興味や関心を持たねばならない。興味や関心を持つには、どこかや誰かから、情報を得なければならない。私達は活字よりも目による映像の方が日常的に情報を得る比率が圧倒的に多い。
目による情報として、全く同じ絵を見ても人によって感じ方やその後のアクションは異なっている。そして、この感じ方は、それまでにその人が経験したことにより大きく違ってくることも事実だ。
どんなことも絵に表現されると分かった気になるし、他者に説明し伝えることができると思う。シリコンバレーのある企業で、目的や課題と解決手段などのストーリーを漫画のような絵によって作成する専門職の人を見たことがある。議事録がその場で大きなシートに漫画のように絵で描かれていくのである。絵が伝達する全体像の価値とはここにあると思った。
見た映像は一番行動に結びつく。絵を中心とした生活を、これからもっと意識していくべきだと思う。