ナレッジネットワークを夢ではなく現実にしたい

今年は未来に向かってシナリオが描ける年にしたいと思います。昨年は、世の中に存在していた隠れた問題が顕在化した年でありました。そして、個人、地域、企業、社会、世界それぞれにおいても課題を認識したのではないかと思います。

 それに対して、役割を持った人が新年のあいさつの中で、自らの言葉で未来に向けて夢や責任を思い、発したと思います。今年は社会の方向を一気に転じることが必要だと思っています。安全、平和、安心、平等でないこと、それを阻む仕組み、おかしなこだわりなど複雑な関係性が、解決を困難にしている。

 基本的問題と派生的問題の切り分け、優先順序の明確化と責任ある宣言と共有が行われる必要があります。複雑だと言うのではなく、単純化した話をする必要があると思います。共感できる話は単純化した本質的な言葉が必要です。

 右向け右ではなく、論理的に説明する能力がリーダーには必要です。そして真摯な態度はもっと必要な社会になっています。環境変化の見込み違いもあり得るとして、軌道を修正して衛星のように目標に到達させなければいけません。それには個の集合としてのチームワークが存在していないと何も進める事ができないということになります。

 企業で言えば、個の社員を歯車や道具のようにしか考えていない事が少しでもあるのならば、それを転換しなければいけない、それを行えるチャンスのある1年だと思います。

 私達の社会は、グローバル化し、同時に孤立化しているようです。話し合えば分かることもメールで済ませてしまうような事では、課題は解決することなく、不愉快さが消えません。

コミュニケーションはデジタル上では倫理意識が弱まる場合があります。リアルな対面のコミュニケーションと使い分けることができなければいけないと思います。

薄い発言が分断を生み、個人が発言を控えるようなことでは、日本のチームワークは発揮できないのではないでしょうか。

 新年のあいさつを期待して聞きながら、どうも違うなと思った方は、しっかりと発言し、良い社会に向かっていくようにしましょう。

 商業主義でないグローバルな知識の集合が進み出す夢(ナレッジネットワーク)を描いて、今年も、考えていることを書き続けていきます。皆様にとりまして、本年もハッピーな一年になりますように祈念しております。

文化財のものづくり記録をデジタル化するには

文化についてその記録と伝承方法を考えてみたい。文化には建造物、絵画、彫刻、有形な物と芸能演技や工芸技術などの個人や集団が受け継ぐ無形の技術がある。今流に言えば、ものとコトの違いと言っても良い。どちらも物理的に存在しているので、誰でも見ることはできる。コトであってもも、その訓練や具体的な表現によって他者も見る事ができる。しかし、誰も真似ができないコトでもある。

  ものの文化財はその材質、加工方法やそれが造られた背景などを分析することや、古文書などによって研究する事ができる。無形の文化はその人が生きている間に継承をしていくことで絶やすことないように努力されている。

 どちらの場合でも、人というものがその文化の感じ方や心などを伝えていかなければいけないことである。文化は地理的な条件により、その国、地域に根ざす人の集団と共に継承され続いていく。

 文化を壊すことは、それまでの民族の歴史を壊すことと等しい。未来に責任を持つ行動をしたいならば、歴史的文化を大切にしないといけないのは自明なことであろう。そして、過去から引き継いだ背景や心を語り続ける必要がある。

 そのように思うのであるが、私には残念ながら語れる文化の知識が無い。文化に接することは、結構あるが、時間軸に体系的にその文化財たちを繋げて理解できていないのである。説明をお聞きしても、頭の中に記憶できないのである。これは、それぞれの文化財を個の財としてしか知識の獲得をしてこなかったのが要因である。いかに縦横に流れとしてものごとを理解することが大事であるかを物語っている。

  歴史研究家を集めると、一体、この国はどのような背景を経て文化が生まれ、継承し、変化してきているのかを体系化して説明を聴くことができただろうと思う。若い人は、そのような視点でこの国の歴史・文化を学ばれると興味が湧くのではないかと思う。知の集合化が必要だと思う。

  もっとあの人にいっぱい聴いておけばよかった。学んでおけば良かったと後悔することが多くある。ものづくりが盛んな国であるが、形式的な物にだけ着目していては、海外にドンドンと遅れることになるだろう。歴史上の文化財になるかも知れない物を作りたい。そのようなパラダイムチェンジを意識してものづくりをすべきだと思う。

  コトはもっと深刻な課題となってきている。どのような意味や意図をもってコトを成そうとするのか。文化として何を引き継ぎ、何を超えようとしているのか。それによって、どんな感動を与えようとしているのか。人が未来に向かって引き継いでくれるように、真剣にそのコトを研究し、表現をしようとしているだろうか。

  いろいろな分野、作風、芸風があるだろう。ものづくりのコトも同じである。日本はコトの継承が弱すぎるように思う。大事なのは物の前にある人の思いや考え方であるコトにある。文化においてもコトの知識の蓄積があると良い。そしてその知識人の知をインターネットで集合できると良いだろう。そしてコトの革新に挑戦して欲しいと思う。

音楽の連想性を参考に製造業のものづくり知識の検索に生かす

音楽は人をリラックスさせる。年末になると音楽の番組が増えてくるのが嬉しい。と言っても、最近の横文字なにがしのグループには全くついていけないが。筒美京平さんの特集は懐かしく、青春時代を思い出させてくれた。私もいつか自分で演奏したくて、50歳を越えて、エレキギターを5年習っていた事がある。これは長年の夢を会社を辞めたことで、自由な時間が持てるようになったから出来たこと。

 しかし、ここ10年は、仕事が多忙でギターも触らなくなってきた。どんなに忙しくてもギターを触っていた頃も続いたが、最近2年間は、それは無くなってしまった。ギター鑑賞だけで恥ずかしい。音楽というものは、心に余裕が無い時は聴くだけしか出来ない。心に余裕があれば演奏しようという気になるものだ。もちろん、音楽を生業にされている方は必死なのだと思う。筒美京平さんはヒットメーカー。ヒット曲を生み出す事に必死だった様に見えるが、それを成し遂げた事が本当に凄いと尊敬している。

 音楽を聴くと、その頃の思い出が脳裏に浮かぶ。この連想性は、どこからくるのだろう。知識の記録方式を考えているので、音楽もその観点から眺めている。連想性だけでなく、歌うこともできる。楽譜が頭に記録されているのではないがおおよそ歌えるのである。音の流れとして旋律が次々と出てくるからである。これは、ひとつのストーリー記憶である。

 全てを、そのもの通りに記憶することは困難である。しかし、歌い始めの部分だけ教えられると続きを歌えるという方法が価値がある。デジタルデータであっても、全てのデータを記録して、そのものから全部を検索するのではなく、先頭の旋律だけ記録させておけば良いという考え方もある。どんな用途のために検索をするかにもよるが、連想性を人の能力に依存する方法でも良いかもしれない。検索範囲を曲の頭だけでも良いだろう。

 ものごとを丸暗記しても活用はできない。それはすぐに忘れてしまう。連想性を持った検索と検索結果の表示が重要である。これはコンピュータがヒントを出してくる様な方法である。意味の記録ということをして、キーワードに頼らない見つけ方を発見したいと思っているのである。音楽もその様な方法で記録したいのである。

製造業は今の業務プロセスを正しいのかを確認する必要がある。

予め予測することは、社会において避けて通れない手続きである。いつからであろう、TVで企業のトップによるお詫びの謝罪会見が始まったのは。いつも決まって黒のスーツを見にまとい、頭を垂れ説明するが、そのことで問題は解決することはないのはみんな分かっている。

 ここ20年位の間、このような謝罪会見が増えているように思える。個別の事例を出して批評するのが目的ではないので、踏み込んだ意見は述べるつもりは無い。ものづくり企業だけでなく、保険会社やサービスの企業の例もある。何故、このような問題を起こし、それをどのように再発をしようとするのかは他山の石とすべきである。どうだろう、事例集を公開して、その再発防止策を皆の知識にしてみないか?

 発生した問題は、ずっと何年も前から行われていたことが多い。組織の誰かは気づいていたか知っていたはずだと思うことが多い。どうにもならない状況になって謝罪会見に及ぶということは、それ自身が問題である。でも過去のことは責めても過去に時を戻せない。執拗な追及はなされない。おとなであるからだ。

 組織は人で構成されて、役割を分担して機能するものであるから、どこかを個人の責任に任せなければ、生産性は向上しない。個人を信頼して、問題を未然防止する予見力をどう仕組みにするかは重要なことである。チェックばかりしていては、物事が進みにくい。何もチェックしなければ、ミスが起こる。業務プロセスの中で、どのようなタイミングでチェックを行い、そのチェック内容などは標準化される必要がある。

 人はミスをするものだという原点に立ち、個人の責任としないように、どのように、どのようなタイミングでチェックを行うのかを決め、チェック結果を皆で確認し合うことが必要である。個人に反省を求めても失敗する風土は治らない。

 上司が時間が無かったので、チェックが行われなかったと言うことのないように、スケジュールに自動で組み込まなければならない。人はミスをする前提で、企業は、どのような仕組みを持っているかを説明できるだろうか。働き方改革とは、このような仕組みをまず先に作る事だと思っている。オフィスのレイアウトやPCの整備などの形式主義では何の為の改革なのかと疑いたい。

 世の中のいろいろな事が形式主義で済まされているようなら、それは改めなければならない。そして、その主義に慣れてしまっているならば、私達自身の頭を元に戻さなければならない。

IT関係に長くたずさわっていると、道具の導入だけになってしまう企業が見られる。ITを仕事に生かすには、ものではなくコトをどうするかであり、一番重要なことは、社会的責任を担保できる仕組みになっているかどうかである。人はミスをするのだという原則に立って、予見できる仕組みを保有すべきだと思う。

 予見ができる仕組みを構築するためには、業務プロセスと判断ルールが標準化されていなければ難しい。判断結果は共有され、判断に関する皆の意見も共有記録されなければならない。要するに企業の業務知識がIT化されていなければならない。

地図から学ぶ歴史と文化と思想は知識の記録方式の良い活用例

歴史を学んだのは高校生の時で最後であった。その後は歴史小説などを読むくらいで、歴史ということをじっくりと考えたこともない。最近になり、過去にこんなことがあったのかということを知ることがあった。それは50年位前の事件であった。その頃は中学生であったにも関わらず、私の記憶には何も残っていなかった。

 印象の強かったことは、記憶に残るものだ。喜怒哀楽というか、喜びや憎しみ、成功や失敗を強烈に感じたことは忘れないものだ。一方で、自分には関係のないような過去の史実は学生の頃、勉強で丸暗記していたが、これらはほとんど記憶から消えてしまった。当事者として関与していないことは記憶に残らないものだ。

 今現時点のことも数秒後には、過去のこととなっていく。過去は時の経過と共に着実に作られていくので、記憶しようとするならば、増え過ぎてパニックになってしまうだろう。人は適当に物事を忘れていくから、新しいことを少しは覚えることができるようだ。

 重大な自分の喜怒哀楽については、これからも忘れることはないだろうと思う。これは何故なのだろうか。体験することは記憶に残りやすいということなのか。何百年も前の歴史は体験ができないので、どうしたら覚えることができるのだろうか。

学者の方々は歴史上の人名なども、ものすごい知識を披露してくれる。体験していないことを、何故記憶できるのだろうか。仮説として、試験勉強のような丸暗記ではなく、人物の行動、思想、意義などの内面的な事柄を、当時の社会環境、勢力圏、生活様式、文化などとからめて、自分の推察を論理的に組み立てようとするからではないかと思う。自分ならどう対処しただろうかなど体験をしているのだと思う。

 論理的であろうとすればするほど、未知のことに気づき、そこを深堀していく。そしてまた、分からないことを知ろうとし、理解の範囲を広げていくことが脳の体験となっているような気がする。人は考え続けなければいけないのだと改めて思うのである。

 歴史を記録するには、その時代の地図が絵となり得る。主に歴史は人の行動の結果である。どこに居たのか、どこに移動したのかなど、地図上に行動を表現するれば良く記憶に残ると思う。地図による歴史の勉強の仕方として、もっと若い時に気づいていれば良かった。

地図は時代と共に変化してきた。人の行動と地図の変化の背景・理由(why)を考えると面白い学び方ができると思う。教科書はそのようなことを促してはくれなかった。これからの歴史の勉強は、地図の変化の裏にある何故をいろいろな角度から調べ直すようなことが良いのだろうと思う。

 過去の思想と結果を理解して、人間の欲や過ちや感動的な良さなどを知ることは宗教にも通じて、科学にも通じ、学問の境界を超えていくことになるだろう。世界地図を机の上に置きものごとを考える。

その世界地図は過去の時代の代表的な国の区分が必要。これがIT技術で解決すれば良いだけである。それを使って、どの地図のどこからスタートしても良い。学問には境界がなく、知的好奇心と倫理観があれば、インターネット上の情報にも惑わされずに過去の歴史から思考することができるようになるのではないだろうか。

もう、小生は残念であるが、気がつくのが遅すぎた。