勘が良い人の習慣とは

あの人は勘の良い人だと人から聞くことがあるだろう。勘が良い人の習慣とはここでの勘の良いとは、裏か表かを当てる勘ではない。2者択一のようなこと柄ではないく、そこに提示されている選択肢は何も無い状態の中で、例えば、明日から何をすべきかと言う問いに、これをすべきだと言う人であり、そのことは周囲の人達にはピントこないようなことであり、しかし、数年経って見ると、言われたことが社会での議論に取り上げられていて、勘の良い人が発言したことが正しいとの認識になっている。このようなことを言える人のことを勘の良い人だと思う。

 このような人はどんな思考訓練をしてきたのかついて考えてみたい。まず、そもそも答えの無いテーマを常に探している習慣を持っていることが必要だと思う。インターネットで答えの無いことを確認してから考えることを始めるべきだ。インターネットにその答えがあるのでは、どんな良いことであっても考える楽しみがない

 とにかく興味を持って毎日を過ごすことだ。一つのテーマを何ヶ月も考え続けることが必要である、暇な時間が持てないとこんな生活は難しい。だから、自分が自由に使える時間が持てる職業につく必要がある。すぐには難しいが、そのような考える生活が出来るようになることは自分にとって幸せだと思うなら目指すと良いと思う。

 TVのニュースなどを聞いていても、すでにその情報はインターネットで流れている。それについてコメントや解説が行われて既に古新聞を読んでいるように思う。インターネットで情報を得るなら、TVはいらない時代になっている。

 コロナ禍の今年は、TVが創造的でなくなった。現場に人を集めて作り上げるような番組が減った。増えたのは、クイズ、解説番組など面白く伝えるものが多く、飽きられてしまわないだろうか。コロナは創造性の機会を奪っているように思える。

したがって、人は自分一人で創造性を発揮することが必要になっている。自給自足も良いことだ。このようなことによって、企業という集合が、その人同士の繋がりを柔軟なものに変更しなければ、社会の柔軟化に遅れをとる事になる。副業を認める企業が増えているのは柔軟性の表れであろう。

 あと10年も経つと多くの企業のサイズは小さくなっていてるだろう。一方、中小企業はできるもの同士は結合するし、そうでない企業は、個人企業化するだろう。個人事業主はもっと増加し、個人企業や個人事業主はプロジェクト毎の自由な連携により、ビジネスを進めていくようになる気がする。多くの社員を抱えて大企業として存続するのは、自動車くらいしかないだろう。それでも規模は小さくなるはずだ。

 今でも生きることが難しく、10年後など考えていられないと言うのも理解できる。もちろん今は、今の問題を解決すべきである。しかし、10年後に、自分はどうしているべきか、どうあるべきかを考えることは自由であり、何を生業にしても良いと言う時代になっているはずだと思うことだ。

大きな会社、有名な会社という価値観はなく、社会に役に立つことが硬直化することなくフレキシブルな形態と思考で実行されていることが必要だ。

 できれば、今から、まずは、メモを書き、そのメモ群を縦横斜めに考える習慣をスタートすることを勧めたい。勘が良かったということになるように。

絵が伝達する全体像の価値とは

美術館に行くことも好きだ。なぜかと言うと、時間を忘れることができるからだ。嫌なことも忘れて絵画を見ていられるからだ。映画では、そうはいかない。美術館で絵画を眺めていると、以前は、どのような筆づかいなのかや、色彩や構図が気になっていたが、最近では、ぼやーっと眺めていることができるようになった。それでも、その絵画の時代や画家の経歴などの解説は絵画の理解に必要である。

 絵画だけ見ていても画家の名前が分からないと何故か記憶に残せない不安を感じるのは私だけであろうか。絵画だけを見て楽しめるようになるには、まだまだ沢山の絵を見ないといけない。絵だけ見るだけでは、その絵についての無知が故に、充実感が足りない。絵と解説が私には必要で、そうでなければ、自分の満足感が得られないように思う。

 絵は比較して見るものではないと思う。それぞれが独立している芸術であり、1枚の絵だけにぼーっと眺めているだけで良いのかも知れない。有名な絵画の展示があると大変多くの人が絵の前に密集し、数秒でその前を立ち去らなければならないようなことは何故起こるのだろうか。

ルーブル美術館などは、もっとゆったりと鑑賞できるのに何故日本の美術館はこうなのだろうか。展示物の多さと、展示会場の広さが、ゆったりと観れる時に観れば良いと言う余裕を与えてくれるのかも知れない。

 絵画を見るが写真は撮らない。昔は撮ったこともあるが、それを持ち帰って見ても何か感じるものがない。その時だけモニターに写っているのを見ても、単なる映像にしか感じない。絵画を見ている気にならない。

 もう一つの場面として、私は有名な画家の絵画の中で印刷物を額に入れ、自宅の廊下などに飾っている。これは、すごく満足感がある。気に入った絵は、いつでも眺めることができる場所に置いておきたいのだと思うからだ。だから、パソコンの電源を入れて、さあ見るぞ!という心理では絵画は楽しめない。いつも近くで見えていて欲しい存在だと思う。

 今はあまり見ることがないが、どこかの局で、アートシーンという番組があった。これはTVの番組で、美術館の中の絵画を、ゆったりとした口調で、強制的ではない感想を主に柔らかに語るような解説が気に入って見ていたことがある。これは、一緒に美術館にいるような気分になるから心地良かった。

 本物であることの美術館。是非、一度でもいいから見てみたいという欲求が強い鑑賞。本物ではないが、気に入って物を近くにおき眺めていたいという満足感でのいつでも鑑賞。TVや動画による解説付きの絵画を見て、知的な好奇心による知りたい鑑賞があるが、絵が好きではない人にはどうでも良い話ですね。

 人は行動しなければ、何も始まらない。しかし、行動の前に、興味や関心を持たねばならない。興味や関心を持つには、どこかや誰かから、情報を得なければならない。私達は活字よりも目による映像の方が日常的に情報を得る比率が圧倒的に多い。

目による情報として、全く同じ絵を見ても人によって感じ方やその後のアクションは異なっている。そして、この感じ方は、それまでにその人が経験したことにより大きく違ってくることも事実だ。

 どんなことも絵に表現されると分かった気になるし、他者に説明し伝えることができると思う。シリコンバレーのある企業で、目的や課題と解決手段などのストーリーを漫画のような絵によって作成する専門職の人を見たことがある。議事録がその場で大きなシートに漫画のように絵で描かれていくのである。絵が伝達する全体像の価値とはここにあると思った。

 見た映像は一番行動に結びつく。絵を中心とした生活を、これからもっと意識していくべきだと思う。

旅の記録への写真による知識の記録方式の活用

コロナが蔓延し、今年は旅に行くことができなかった。毎年、4ヶ所くらいは旅行に行くことにしてきたが、ほとんど家の中でじっとしていた。

 旅に行く前に移動の電車、飛行機などの時間を調べ、行きたい場所の計画や宿泊先を考えるのがまず第一の楽しみである。そして、その計画に沿って、旅先の景色を撮影する。その時の感想などやそこで見つけて店や土産、食事などを写真に撮り、私は自分の開発したアプリに登録している。正確にはいたのである。実はIphoneアプリを開発販売していたが、現在は次の設計仕様を検討中の為、サービスを停止している。

 地図の上に旅行の計画と実績を記録していた。どこで何をして、どのくらいの時間滞在して、どのような感動を得たのかを日記ではなく、そして写真集だけではなく、体験を記録したいと考えた為です。

 最近では簡単にスマホの画面をTVに映せるようになった。単にスライドショーを見ていても面白くないので、その道中の中での感動を文章でも絵と一緒に共有できるようにしたいと思った。私が居なくても伝えられるように。

旅行雑誌の個人版のようなものである。これが思いの外、多くのことを思い出すのに有効であった。あの時、時間が余ったので、ふと立ち寄ってんだなということまで思い出させてくれる。これはどこで撮った写真だったかということもなくなる。

位置情報も記録できると良かったなどシステムを自分で開発できると、新しい利用用途を生み出すことができる。ここでも、絵と感動と連想という曼荼羅の機能が有効であることが良くわかったのである。

 これは、文章、写真、地図、情報、時刻などがそれぞれ異なるアプリにしか記録できないことに対して、私が考える一つの提案としてのアプリケーションであった。あまり積極的にも宣伝をしなかったことと、実現したいことの表現を試行する研究目的であったため、その役目を終えた段階でアプリの配信は停止してある。

 この知識の記録方式の投稿により、広範囲なニーズや実現機能などを整理することができているので、全体的に満足する思考結果になった際には、改めて、ソフトウエアの販売を開始したいと思っています。

製造業の技術革新とサービスにおける対応人材の知識の共有について

人手がかかる業務に製品を販売後の顧客サービスがある。製品を使用していると故障などを電話で問い合わせが必要な時がある。既に問い合わせは、カスタマーセンターという部署への連絡となり、最初に自動応答による要件の振り分けが行われる。

実はこの音声が人間味が感じられず、あまり好きではない。その後、電話の呼び出し音が鳴り、決まって「ただ今、電話は大変混み合っています。、、、」と流れてくる。ここまでは、どこのカスタマーセンターでも同じようであるから、きっと同じシステムを各社が導入しているらしい。

 結局は、人による応答でなければ、故障の相談と受付ができないのも共通しているようである。故障の受付に際しては、きっと社内に蓄積された故障事例と対応などが製品製造番号で求まるようになっているのだと思う。その時に現象確認のために、確認操作を促して、実際の電話で症状の把握まで行う企業もある。単に、故障した製品を発送を促して、到着後、修理できるかの判定を行うやり方の企業もある。

 自動車の例で、海外などグローバルに販売する車種が多い。このサービスは、基本的に販売店や修理業者にて行われている。自動車の場合は長期に渡って移動手段がなくなるのが困る為、修理は手取り早く部品の交換を行うことが多い。原因をしっかりと突き止める時間的な余裕はお客様からいただくことはできないのである。
 
 海外で発生した故障が、散発し、広範囲な地域に発生するなどしている場合には、交換した部品を日本に回収し、設計評価部門にて原因調査を急ぎたい。このような場合にも必要とされるのは、現地の販売店や修理業者が把握した故障の内容や、その発生状況である。現地の作業者が見聞きし、その事実を写真に取り、それらをその業務を行う人達の間で常時共有し、故障からの類似性や同一性の判断を行うように働きかける必要がある。もちろん本社のある日本にても同じく行われなければならない。

 このような修理現場と本社との情報共有は、それほど上手く行われているとは思っていない。もし、自動運転車が増え、なんらかの事故や故障が起こった場合には、このようなサービス業務はどうなるのであろうか。自動運転の技術はあるが、異常の挙動などの自動収集はフェールセーフと同じく必要になる。最後に問題になるのは、自動運転車を修理できる人を育成できるのだろうかと言うことになる。

 建設機械業や造船業や鉄道などの自動化も、飛行機のメンテナンスの歴史を参考にサービスの体制は大きく変更する必要がある。サービスの業務にもその知識が必要である。このような知識をどのように整理を行って維持・継承するのかや、どのように理解伝達していくのかは重要なことで、人に依存して過ごせたサービスとは全く異なる方法を安全面を重要視して構築しなければならない。結構大変なことを今後10年で行う事になるのである。

紙の本は無くて良いと思える使いやすいデジタル本への期待

昔と今とでは本の読み方が変わってきている。若い頃は、どのようなことに対しても興味があり、読む本のカテゴリは多かった。推理、歴史、起業、純文学、ハウツー、ものづくり、経営、ベストセラーなどであった。


 現在は、知識に関する本に集中して読書をしている。意識、記号論、知能、教育、文化、情報、言語、知識、創造などを読みたくなる対象となっている。興味が知識というテーマに没入する様になり、実は他の分野に時間を割けなくなってしまったことが理由である。時間が有れば、もっといろいろな分野の本を読みたいと思う。

 本をどのように読んでいるかについてであるが、最近はタイトルと口コミを見て決めている。口コミがなかった頃は書店で必ず手にして購入していた。しかし、最近はもっぱらインターネットで購入している。

電子書籍もダウンロードしてはいるが、圧倒的に紙本が多い。ペラペラめくりによる読書は紙でないと無理だ。気になる記述はイメージスキャナのアプリでスキャナして、本のタイトルと合わせてpagesに保存している。

 後に本を読み返す為のメモにしている。そしてその言葉づかいを忠実に記録する様にしている。同じことを言っていても、言葉づかいにより受ける印象は全く異なるためである。

 読んだ本の意見交換ができたら良いと思う。或いは、できないことの方が良いのだろうか?最近のSNSではオープンになったことにより、知らなければ良かったことも知ってしまう場合がある。知りたくない権利があるはずだ。何でも知らされてしまうと人は安心して暮らせない。

 例えば、AIが特定の人の信用度を点数化することはいかがなものかと思う。そんなこと比較されることを望まない。無神経に決められた点数に公共性はないだろう。企業が内部の指標として持つのはあっても良いが、それが外部に見えるのは、たとえ本人であっても問題がある。そのようなことを知りたくないはずだ。

 本を読んだ者同士で意見交換できたら良いと思ったが、それは知りたくもない意見を聞くことになるのではないかと思う。やはり読書とは、自分の心で何を思うかまでで良く、十分であると思う。他者がその本をどのように解釈して意見を言おうとも無関係なことだとしておきたい。

 今日、インターネットからは見たくもない情報が毎日、執拗にとも思われるくらいに一方的に表示されてくる。このような状態を誰が許可したのだろうか。初期の頃は、ほほうと思って眺めていたが、今日では、もういらないと言う気分になってきた。大人は取捨選択して、読み流すことができるかもしれないが、同じ情報を子供が見ていると思うと心配である。

 情報は自ら取得するようにできないものだろうか。だから、ひっそりと読む紙本を手にし、その時間だけでも、インターネットの余計な情報から離れることができ、安静な時間を過ごすことができるのである。やはり紙の本は無くなって欲しくないと思う。