IoTはデータ収集手段。技術的な仮説を立てて見える化の目的を明確にIoTを進めること。

見える化と言う言葉を聞くことが多いと思う。見える化を視解化と書く人もいる。

 いずれにしても分かっていないことを目で見えるようにすること。

 頭の中で考えていることも他者に理解してもらう場合には必要だ。

 人は多くの情報を目から入手しているので、目に見える具体的な表現にすると理解が進むことになる。

 他者に対してだけではなく、自分の困っていることを見える化をすれば、考えの範囲が広がり、そして深くなり、行動にも結びつく決断ができることになる。

 分からないことは人に聞くことになるので、今まで意識していなかった事を自分の見える化を通して初めて認識できることにもなる。

 データを取得して見える化することは、優先順序や新しい着眼点を見える化する時の方法の一つです。

 見える化=ITツールということではありません。

 見える化したい対象を明確にして、シャープな追及をすべきです。

 最近は、言葉遊びが多い気がする。見える化ではなく見せる化だとかの言葉が出てきる。

 結果は見える化でしょ!ということですが、要するに、行動できているかにあります。

 データをPCにいっぱい保有していても、活用されなければ、時間と資産の無駄です。

 5年前のファイルを今でも使って仕事をしている人は殆どいないのでは無いでしょうか。

 環境も変化し、見える化の対象も変化していきます。

 必要なデータを集めて、合意形成し、対象を解決する行動を起こし、対策の効果を確認することが大事です。

 効果の確認まで行わずに集められたデータは見える化としてはデジタル化しただけで、目的が不在のままの単なる作業です。

 いろいろなデータをIoTでいっぱい取得できるようにすると、気づかなかった何かが発見できるという意見には懐疑的です。

 見える化の対象(テーマ、目的)を見つける事が一番重要で、そのために、日頃から意識を高く持ち、社会や企業の中の事象に着目し、疑問をメモすることを進めます。

製造業のIoTは目的が大事、人の仕事の自動化が進まなければ効果は出ない。

 IoTやDXという言葉がメールマガジンなどに数多く登場している。いずれもIT技術で業務の自動化をすることだと思っている。自動化と言っても、小さな自動化に視点が向いていないか心配である。むやみにデータばかり取得しても、何か新しい発見があるかと言えば、科学的、論理的に説明のできないことが表現されるばかりではないだろうか。いかなる発見も仮説に基づいてなされるものと思う。

 したがって、何を知りたいのかを明確にし、その為に、どんなデータを取得すべきかを考えることが必要である。データを取得するセンサーはどこに配置すべきか、どんなサイクルで取得すべきかそれを他のどんなデータと処理を行うのかなどを考える組織とそうではない組織とでは、成果が全く異なるのは当然だと思う。

 もう一つはwhyだ。なぜそれを行う必要があるのか、本当に効果はあるのか、どれだけの工数削減になるのか、企業の生産性は30%以上向上するのかを考えるべきだ。まずやってみるということに反対はしない。しかし、やる前に分かることが多くあるはずで、なぜやってみようとするのかを問いたい。

 まずやってみようとというならば、何のためにまずやるのかと言う理由を明確にすべき。チームの意見が纏められない時にリーダーはこの言葉を良く使う。そんな時、リーダーには自分の金と工数でもやってみようとするのかと確認することにしている。この行動は、一種のマネージメントからの逃避である。

 なぜIoTがマネージメントの話になるのかと言えば、IoTの指標は工数低減であるからだ。工数と投資とタイミングの責任はマネジメントにある。IoTが進まないのはマネジメントの意識が希薄であるのではないか。それを担当に任せていても進むものではない。担当は自分の守備範囲を決めて仕事をするしかないからだ。マネジメントは組織や守備範囲を超えて仕事をするものであるからだ。

 IoTは組織横断的テーマを持たなければならない。組織と組織との間の考え方のつながりが属人的である。ベテランにより正しかろう判断で組織間の問題解決を行なっているのが現実である。


 IoTが自動化を組織間の問題解決に適応させようとすると、このベテランの判定を自動化する必要が出てくる。実際に行っていることが本当に価値があるのかを考え、価値が無いならやめればいい。価値があるなら、その方法の良否を分析することが必要である。重箱の隅のようなデータがばかりを比較していないだろうか、もっと大きな観点でデータを見ることで十分な結論に至ることもある。

 IoTは目的ではないのであるから、何を解決したいのかをしっかりと共有し、無駄な工数や投資を減らすことが必要だ。そして、この議論は一企業だけ進めることができないこともある。サプライチェーンの中での生産性向上を目指さなければ、目的が達成できないこともあり、実は、この達成できない目的が企業の生産性を低下させていることもある。例えば、品質の確保と維持がそれであろう。

知識の記録をすることで教育から学ぶ方法へ。ビックデータ活用時代の教育のあり方を考えたい。

教科書はもういらない時代へ

教科書を読んだだけでは理解されないことがある。人に聞いてもわからないことがある。人それぞれに理解の深さが異なるものである。学校では知識を教科書から得る授業が主体であるからだ。学びの方法は、この経験を通して個々人が身につけていくことになっている。学びの方法を身につけられていないことは、現代社会においては調和的建設的な生き方が難しいのではと考えている。
 リテラシーという言葉が使われる時代になった。新しく出現した概念やものについての理解や知識があること言うが、社会人となってから出現してきたことに、どのようにリテラシーを身につけていけば良いのだろうか。それは知的好奇心を持ち続けるしか動機づけはない。今、従事している仕事のはリテラシーという部分が存在していないこともあるだろう。世の中の情報を自分の動機づけを維持しながら興味関心を維持する事は容易な事ではない。ノーベル賞を受賞した方々は、きっとライフワークとして研究をされたはずだ。
 しかし、そのような研究的なことをリテラシーとは言わない。これから普通の常識として広がっていくもの事に対する、平均点に到達していない知識不足のことだ。私はリテラシーという単語が好きではない。今、世の中で使われているITリテラシーは、単にパソコンが操作できることの程度の使い方である。そんなことをわざわざあかるかどうかを横文字でいう必要はない。横文字にして、あたかも新概念であるかのように思わせて誤魔化されていないだろうか?
 操作の方法を知ったところで、それは作業方法を知っただけで、考えることがうまくなったこととは程遠い。学校での教育も、考える授業であるべきだ。考え方はいくつもあり、正解がない、あるいは、いくつもの解き方があるということを知り、その思考過程の中で、学びとは何か、学び方を身につけて欲しいものだ。きっとこの姿勢は永遠に続けられるしかない。学ぶ対象は宇宙のように膨大で膨張していくのであるから。

学び方を発見する教育へ

 子供の頃から、知識と学びは違うことであるを教えないといけない。頭でっかちと呼ばれる人は知識はあるが、自分で考えることのできない人のことをいう。現代社会において、この頭でっかちの火星人が増えているように思う。具体的な事象の上に学びが得られるはずが、事象を読んだだけでは分かった気になるのでは困る。インターネットにある文書をコピペして、いかにも自分の考えたことだと報告する社員がいる。インターネットの無い時代では、それはできなかった。ITリテラシーはあるが、何か大切な教育が欠けているのでは無いかと思う。

 学校教育にパソコンが入っている。学びという点でそのコンテンツは単に本のデジタル化に留まっていないだろうか?これはまた同じ頭でっかちを作ろうとしているのではないか?教科書を読んでも学びが得られない。このことに対する対策がパソコンを用いた教育の中で行われなければならない。このように問題意識をもって学習教材を考えている。

特徴点記録法により知識を自由に獲得できる21世紀の教科書を作りたい。

教育は事例の理解をたくさん行い、関連する事例に展開できる機能が必要である。それは、検索に依存する探すことを行う必要のないやり方でなければ、思考がそがれてしまう。知りたいと思えば、どんどんと広がっていくことのできる機能が必要である。習得する順番は規程されていても、その範囲は自由に広げられるようになっているべきだと思う。
 このようなことを実現しようとするならば、単に本をデジタル化しただけでは不可能であることは自明である。その中で何を思い、どのように考えたかを書き込む機能が必要である。そして、そのことを他者と共有して、同じ知的好奇心をもつ人達と議論ができる機能が必要である。これらの為には、お互いに知っていることを参照登録でき、その結果が絵本のように表示されなければならない。このような機能を実現する際にも、特徴点記述法は有効である。そして何人も同じ知識獲得の環境を平等に享受できなければならない。

知識の記録ができる方法の説明はこちらから。

製造業のデザインレビューの目的は潜在的問題点を顕在化し、関係組織にて解決し経営指標を高めることにある。

サプライチェーンの中の潜在的問題点の顕在化

仕事は問題と対策の繰返しである。計画通りに進まないのが当たり前。しかし、同じ間違いを繰り返す事は避けたい。デザインレビューを例に問題点管理の重要性と知識の記録との関係を説明する。
 デザインレビューで気づいたことは、その対象である設計図面のイメージ図に特徴点記録方式によって記録する。例えば、部品と部品との隙間を設計者は1mm で図面を作成したとしよう。2つの部品は、板厚0.7mmのプレス品としよう。さて、生産側はこの隙間を適切な寸法と考えるかどうかという視点が必要だ。それには、設計として1mmの隙間をどの位の公差で製品化したいのかを確認する必要がある。仮に、1±0.5mmなら、生産側は、バラツキをこの公差内に抑えることができるかどうかという判断が必要になる。
 生産側はどのような加工法を現在行なっているのかを知っていないといけない。更に、その加工法における工程能力も把握していないといけない。知っているからこそ、問題だと言えるのである。
 このように、ものづくりのサプライチェーンの中には、膨大なものづくりの知識が存在している。その加工工程を知っているのかどうかはデザインレビューにおける気づきの有無に影響する。ものづくりの知識は現場での体験によって記憶に留められるものだ。座学では、感覚は身につかない。しかし、全ての人がサプライチェーンの中の全ての現場を体験できることなど不可能である。会社も組織も機能分担されているために、そのような体験ができる事はあり得ないことである。

デザインレビューを通じて周知を結集し、経験を共有することができる


 そこでどのように擬似体験を行うことができるかを考える必要がでてくる。人は成長してながら、後任にバトンを渡さないと社会は成長していかない。これまでバトンを渡さない企業を何社も見てきたが、すべからく進歩の無い硬直化した組織であった。
 人は突然と何かを思い出して生きているように思う。それは新聞を読んでいたり、小説を読んでいる時や、絵画を眺めているとき、遠くを見ているとき、人にあった時、などいろいろな場面で起こりうる。その時には、目に見えた絵と結合しているように思う。だから、嗚呼、どこかで見たなあ、あの人とそうだ鈴木さんと、渋谷の駅でばったりと会って、懐かしい学生時代の部活の話をしたなあ、嗚呼、そうだ今、中村くんはどうしているかな?など、芋づるのように思い出が湧き上がってくることがある。この状態を知識の繭の糸を紡ぐと表現している。
 製品の図面を見ても、嗚呼、あんな失敗をして生産が品質不安定で苦労したなあ、、と問題点と対策が繭の糸を紡ぐように脳裏に浮かび上ってきて欲しいのである。

問題点は膨張するビックデータである。真っ先にDXで取り組むべきシステム化。


 このようにするには、図面と一体に問題点を記録するビジュアルな方法が周辺の部品の関係などからも、過去の記憶を呼び出せる。そして、そのような失敗を問題点として皆が記録すれば、他者の失敗にも具体的なこととして、理解でき記憶に留めることができようになる。失敗を個人の記録として解決できたら一件落着とするのではなく、未来のバトン渡しのために、発生した問題点をその失敗事例のイメージ図の中に記録させるckweb2 による問題点管理はマネジャーの役割だと考える。

企業のビックデータ活用とDXの考え方

昔の紙のファイルと同じで、まだ、紙とバインダーの方が見つけやすい

 私はすでに10年近くも、タイトルにあるこのようなことを考えている。それはものづくりの仕事のIT化を企業で担当してからずっとである。これまで、本当に知識とは何か? 技術とは何か? ノウハウとは何か?に始まり、そもそも言葉とは何かや、なぜ人は物事を忘れてしまうのか?なぜ、突然に思い出すことがあるのか?人に伝えるには文字でないと難しいのか?Youtubeのように動画になっていくのだろうか?自分のPCに徐々に乱雑になっていくホルダーとファイルの姿を見ながら、何回も整理し直しても解決できないことに特に苛立ちを覚えながらも、みんなはどうしているのだろうかという疑問を抱いている。結局のところ、10年前のファイルなど見ることもないからといっても、消去できないのは何故なのだろう。それでも、本当にたまには過去に考えていたことを知りたくなることがある。その度に何時間も探しまくることを諦めれられない。そして、やっぱり、今でも当時の課題が解決できていないことに呆れるばかり。こんなことを人間はずっと行っている。どこかで課題の解決を諦めたのか、それとももっと重要なことに考えや仕事が移り、その思考の場所に戻れなくなってしまうのだろうかと。
 それは紙とえんぴつで記録していた30年前までと、今日のようにITが進歩した時代の記録方式が変化していないのは大変おかしな事であると思うからである。IT技術に振り回されて、人の生産性は本当に高まったのだろうかと。余分な情報が見え過ぎて、気づいたら何を考えていたのかと悲しくなることが多い。人の思考スタイルになじんだ方法が必要だと考えたからである。良かったら一読してください。
 私達は結局のところ手書きをデジタル化しただけじゃないのだろうか。確かに昔からの紙のバインダーは減った。しかし紙であったがゆえに、置き場に困ることから、その文書の保管期限を決め、ファイリング担当を決め、必要なことと、そうでないことを工数をかけて選択をしていた。今はといえば、いくらでもデジタルデータは保存できるために、文書(データ)管理は大変ルーズになってしまった。さて、この昔と今日の方法はどちらが良いのだろうか?ちょっとしたメモでも20年前のメモが捨てられない私には、今日の無制限ともいえる記録の方法が気に入っている。これはコンピュータの恩恵である。一方で困ったことが起こってしまった。それは、探せないという問題である。かつては、その場所にバインダーが無ければ、もう焼却されたものと素直に理解できていた。しかし今日は、どこかにきっとあるはずであるとスッキリとできなくなってしまったことだ。ゆえに、どのように記録すれば後から過去の思考を見つけ出せることができるのだろうかということに興味を持ってしまったのである。

メモの方法についての勉強


 あの時からずっとこのテーマを考えることを楽しむようになってしまった。そんな中で最初に知った先人は南方熊楠先生の存在だった。この先生の執念や情熱も探究心も凄まじさのある博物学者であったようだ。そもそも博物学という言葉はその時初めて知った。恥ずかしい体験であった。関心が湧いて、その後、和歌山にある記念館も訪問した。もう1人が川喜田二郎先生。さすがに、先生のKJ法は若い会社時代に教えていただいた。実際にカードで実務に使っていた。最後にもうひとりの先生。知的生産の技術で有名な梅棹忠夫先生である。この3人の諸先輩の書籍が私の近年の思考を変えたと思う。では、50年前に出版された先生の本にある方法は今日どうなったのだろう。先人達の思想をその後私達はどのように進化させることができたのだろうか?私はこのように疑問を持ち、IT技術と関係させて解決方法を研究してきたのである。

グローバルものづくりのSQCDデータ項目の全体定義

 最初に手掛けたことはものづくりの仕事の中での気づきをQCDに分けて記録することや、製品開発から生産までの業務をセットメーカーから部品のサプライヤーまでグローバルな業務に用いることのできる業務定義体をRDBに定義した。これはA4バインダで1冊分にびっしりとkeyと属性項目を記述してみたのである。どこまでの詳細化を行うかについては、前職で経験していたエンジニアリングの粒度で記載した。いわば、ものづくりデータのマスター化である。品質、生産性、リードタイムだけでなく、在庫、原価、工程、作業、検査、物流など考えられるマネージメント対象を網羅させた。この時、気づいたことがその後の考えの原点になった。
多くの分野の詳細化を進めていくと、断片しか日常的に捉えられていないことが良く分かった。
世の中のものづくりシステムは、このような理由で分類の見直しやテーブル構造を修正してきている。その時、気づいて項目追加とソフトの改造をしているのはこのことが要因なんだと分かった。例えば、品質管理、物流管理、生産工程管理、設計管理、生産管理など個々のシステムが個別に開発されている。異なる分類や粒度を持つデータを扱っているので、データの連携などは不可能になっている。それでも、そのことを抜本的に構築し直すのは容易ではない。この状況が30年も続いている。この先、このことをどのように解決するのかを早急に行う必要がある。デジタルトランスフォーメーションDXという取組は、このようなデータモデルの見直し無くしては進まない。

DXを進めるならば、この全体定義は必須である。

 私は大胆にも、この壮大なデータモデルを設計してみたのである。その後、このデータモデルをいくつかの企業に紹介したことがあった。しかし、それは残念ながら理解されなかった。というよりも、全体を役割とする責任者がいなかったのであった。本来は情報システム部門の全体としての機能だと考えられるのであるが。
もう一つの問題は、それぞれのシステムは、今、業務として運用していることのデータが扱われていることである。つまり決まっていることだけが、そのシステムの対象になっている。ものづくりだけではないと思うが、仕事は日々変化していくものである。そして管理も詳細化されていくものである。そうでなければ、その仕事は効率性やスピードにおいて進化していないことを意味するからだ。であるから、システムはすぐに改造が必要となる宿命にある。しかし、人はこの困難さを避けたがるものである。これにより、仕事は硬直化し、皆で諦める風土がはびこることになる。だからDXだと騒ぎたくなる。DXの考え方についてはこちらをご覧ください。

全体最適とは一体なんだろう?疑問を持つべし


さて、良く使われる全体最適という言葉も、その言葉そのものが曖昧である。どこまでが全体だとするかはどのように決められているのだろうか?それは地球最適とでも言えば、なんとか範囲が共有できる気もする。このように私達の社会は、どんなに頑張って定義しても部分的になるだろう。また、どんなに深く考えてもまだまだ知らないことがあるのである。
つまり、明確に定義ができない対象をシステム化するのであるから、データ構造変化の自由度の高い柔軟性のある方法を見つけるしかないということが私の考えの基本である。しかし、既存のデータを利用できることも必要である。
このように仕事のデータモデルを考えることは、人の思考プロセスに踏み込まなくてはいけない。そして、それをデジタル化するには、思考の記録方法をどうすべきかを考えなければならない。つまり、コンピュータに知識をどのように記録するのかを考えることになりました。

このような考えのもと、開発したCKWEB2についてはこちらから資料を請求いただけます。