本とインターネット情報の関係について思ったことがある。かつて本でしか知ることの出来なかったことがある。それが今ではインターネットから無料で入手できる。喫茶店でふと横の学生を見ると携帯を見ながら、何やら宿題を片付けているようである。英語の文を、google 翻訳してそれをノートに書き写している。失礼ながらその所作に考えている様子が伺えない。
子供達はスマホで算数の答えが分かる。小数点のある割算を筆算で正しく答えなければならない教育は、もう不要なのではないだろうか。考え方さえ理解できていれば十分だと思う。がむしゃらにプリントの計算を毎日繰り返し行う勉強法はいつごろ生まれたのだろうか。少なくとも私はそのような小学校、中学生を経験していない。そもそも問題集は高くて、それほど書店にもなかったように思う。
スマホがあれば、殆どの調べごとはできてしまう今日、その技術の進歩を素直に受け入れて、スマホでできないことを教える教育をすべきではないだろうか。今の大人が考える未来の到達速度よりも、今の子供達の未来は桁違いに速く来るはずだ。一番の違いは情報の入手の容易さと基本的計算と判断ルールと意見の無料化にある。
教育はこのスピードの速さを意識しているだろうか。プログラミング教育そのものも不要になってしまうだろう。英会話の学び方も幼児期から時間数や機会を増やして変更する必要だろう。小学校なら生徒が社会に出る頃の社会を想定して教育をすべきではないだろうか。企業が製品やサービスの競争を先読みするように、子供達の先の未来の社会の姿を見定めなければならない。その上で、教育内容を計画できると良いのだが。
社会のニーズに対して、硬直化した教育では子供達の未来が他国に遅れる。幸い国内でも先進的に取組を始めた学校もある。教育には歴史の認識と未来の予測が必要であり、生まれ出る言葉の先行性と実現性を良く判断して今を生きることの会話ができなければいけない。輸入された言葉に翻弄されてはいけないが、しっかりとその先行性を実現する年表を描けるような人達が増えて欲しいと願うのである。
本であれば、他の本の内容と結合した新しい意見が登場するまでに何ヶ月も必要なゆっくりとした流れで過ぎていく。しかし今日では、世界に同時配信され、それに対する意見が一気にネット上に登場する。多くの意見を集約する分野とじっくりと研究する分野があるのではないだろうか。そのどちらかを選択するかは、その研究内容によるのだろうか。それとも、これからはネットを利用した情報集約による研究とする方が良いのだろうか。現在を生きる者としては、それが研究と言えるのかなどと、迷うところである。オリジナリティであることの証明がしにくい時代である。
同じ知識や経験を保有した人達だけで、あるテーマの解決を行うよりも他の異なる知識と経験を保有した人達も含めてそのテーマの解決を行うのが良いのか。近年では後者が良いと世間では言われているように思う。しかし、深い議論を進めるにあたっては、やはり専門家を集めたチームによる解決を行なっているのも事実である。この2つのチームの編成はその解決ステップにより構成メンバーを変えることが常識と言うことのだろうと思う。
インターネット情報による速成栽培はできないはずだ。本による熟考を通じて得られる考え方とインターネット情報から得られる考え方とでは、自ら産んだ考えと与えられた考えの差で、与えられた考えはそこから一歩踏み込んで考える習慣を持つようにしないと空っぽな思考になってしまう様な気がしている。
それでも、ITはどんどん先に進んでいく。インターネット情報を生活に役立てる方法を考える必要がある。ITの進歩に一致した生活を行う人もいれば、その進歩より遅れる人もいるだろう。本来、ITは公平に社会に提供され、誰でも等しく利用できるインフラとしての配慮が必要である。インフラは通信だけではないはずだ。この社会インフラが、特定企業の競争だけにおかれているのは、どう考えてもおかしな事と思うのです。