目標設定と業務プロセスの共有化と率直な意見交換のできる組織運営を

新年に目標を立てる人は多いと思う。なぜか、新年になると時間をリセットできる気がする。毎年目標を立てていることはしない。どうもある程度の目標達成に至るには10年は必要な気がする。私は立てる目標が高いことをする傾向にあるためである。

 目標達成は自己の意欲だけである。他者は誰も手伝ってはくれない。自分一人でやり遂げるつもりでなくては、達成は難しい。それに立てる価値はないだろう。自己実現そのものである。目標は自分だけの中に留めて立ててもダメ。他者に目標を宣言しなければいけない。

 個人的な目標達成も3人でやる。禁煙 昔、元日に3人で禁煙を誓い開始したことがある。それまで3回チャレンジしてできなかったが、初めて喫煙者3人で、禁煙を開始した。これはお互いを牽制することと、もう一人のチェックを感じることにより、自分だけが守れないことは嫌だということで、1ヶ月後に確認し合い、3ヶ月続いた。そして、そこから、必死に禁煙をチェックし合い、とうとう、3人共、禁煙できたのである。あれから16年が経ち、3人共に完全にタバコから縁が切れたのである。二人だけで行ったら、妥協し合って達成は出来なかったと思う。三脚はどこでも立つものだ。

 目標を何にするかは、それは、これまでの積み重ねの結果として決められる事だと思う。単に思いつきのような目標は、その実現は難しいと思う。やはり、長い間、こんなことがやりたい、こんな姿をになりたいとか思っていなければならない。

 企業で目標達成するには、その推進組織も3つで構成する。必ず利害関係の組織がある。会社としてやらねばならないことを実現するには、公平なジャッジメントをする組織をその目標達成に加えるべきだと思う。困難な課題を解決するには、最低でも3つの組織以上で、その課題解決を推進すべきである。2つの利害関係だけで進めることは、うまく進まない。

 目標を決めたらプロセスを練らねばならない。しかし、多少なりともプロセスを見つけていなければ、目標は立てても達成は難しいだろう。ここで、目標とは、達成可能性の高いこととするのか、達成の可能性も憶測できないことでも良いのか、どちらにすべきかという疑問が生まれる。でも、そのように考えた時点で、目標は素直な決定から外れている事になる。目標は自発的な掲示が良いと思う。他から決めることではない。素直に決めて必死にやり遂げることだ。特に若い人にはそのようにあって欲しい。

 企業の中においても素直に決めることが重要である。どうでもいいと思う意見に惑わされずに企業が意思決定できなければ、おかしな方向に向かってしまう。これがなかなかできていないのではないだろうか。目標は決めてから、達成できなければ、その過程が無駄になる。以前も取り組んだがうまくいかなかったという意見は、言うに恥ずかしいことと思うことだ。そうでなければ、先へ先へと目標が見つけ、企業の活動が高いレベルに到達しない。

ポジティブな考え事をしながら睡眠をとる習慣に

正月に見る初夢。このところめっきりと夢を見なくなった。と言うよりも覚えていないのかも知れない。

 そう言えば、7、8年前に特別な夢を見た。それは見た夢の続きを数ヶ月後に見たのである。内容はある程度覚えているが、ここで紹介するには不適切なので説明はやめておく。ただ、恐ろしい夢だった。

 今日は1月2日。昨夜はいわゆる初夢を見なかった。睡眠中の脳は、今まで見聞きした情報の整理をしているらしい。 その人の記憶を家族、友達、小学校、などの分類に整理される。ただし、この分類は万人に理解されないといけない。この分類された記憶を引っ張り出したりまとめたりする過程を脳の中で再生しているのが夢ということらしい。 情報はストーリー的に記録されなければゴミのようになるのだろう。

 自分が見聞きしたこと・体験したことが断片的に出てくるだけではなく、自分の体験以外のことも夢に出てくるのである。そうでなければ、あの恐ろしい夢を見るわけがない。しかし、体験しないことも夢に構成されるならば、このことを利用して創造的な思考に使えないだろうかと思ったりもする。

 人は一晩で数個の夢を見ている。しかし記憶するための物質が分泌が少なくて夢は記憶されにくい。私は眠る前に、いつも解決したいことを考える事にしている。と言うより、考えていないと眠れないというのが正確だ。その結果、何らかのアイデアや方法のヒントを見つけるようなことができている。かなり寝不足なのかも知れないが、4時間くらいは寝ている。

 企業へのコンサルで問題解決の方向を討議していると、ネガティブな人に会うことが多い。解決したいかどうかではなく、自分たちがその解決に参加したくないように見受けられる。
ネガティブなことを考えて寝ると、あまり夢見も良くないらしい。やめた方が睡眠のためにも良いだろう。

 問題解決がネガティブ指向な人は、睡眠中に解決策を考えてみると良い。
ポジティブな感情であれば、活性化し、さまざまな角度から問題解決の糸口に気づく事ができるからである。

 夢は記憶の整理、取捨選択、をする機能と言われている。不必要な情報は捨てられるのだろう。ゆえに、興味の無いことは、一晩経つと覚えていないのである。
 一方で、寝る前に覚えたことは記憶に残る。明日試験があるならば、記憶の必要なことは寝る直前に暗記すると良い。

 ポジティブなことを考えながら眠ること。
夢の中で、問題が解決できたり、アイデアが浮かんだりするといい。
ポールマッカートニーがイエスタデイを夢で聴いたように。

ナレッジネットワークを夢ではなく現実にしたい

今年は未来に向かってシナリオが描ける年にしたいと思います。昨年は、世の中に存在していた隠れた問題が顕在化した年でありました。そして、個人、地域、企業、社会、世界それぞれにおいても課題を認識したのではないかと思います。

 それに対して、役割を持った人が新年のあいさつの中で、自らの言葉で未来に向けて夢や責任を思い、発したと思います。今年は社会の方向を一気に転じることが必要だと思っています。安全、平和、安心、平等でないこと、それを阻む仕組み、おかしなこだわりなど複雑な関係性が、解決を困難にしている。

 基本的問題と派生的問題の切り分け、優先順序の明確化と責任ある宣言と共有が行われる必要があります。複雑だと言うのではなく、単純化した話をする必要があると思います。共感できる話は単純化した本質的な言葉が必要です。

 右向け右ではなく、論理的に説明する能力がリーダーには必要です。そして真摯な態度はもっと必要な社会になっています。環境変化の見込み違いもあり得るとして、軌道を修正して衛星のように目標に到達させなければいけません。それには個の集合としてのチームワークが存在していないと何も進める事ができないということになります。

 企業で言えば、個の社員を歯車や道具のようにしか考えていない事が少しでもあるのならば、それを転換しなければいけない、それを行えるチャンスのある1年だと思います。

 私達の社会は、グローバル化し、同時に孤立化しているようです。話し合えば分かることもメールで済ませてしまうような事では、課題は解決することなく、不愉快さが消えません。

コミュニケーションはデジタル上では倫理意識が弱まる場合があります。リアルな対面のコミュニケーションと使い分けることができなければいけないと思います。

薄い発言が分断を生み、個人が発言を控えるようなことでは、日本のチームワークは発揮できないのではないでしょうか。

 新年のあいさつを期待して聞きながら、どうも違うなと思った方は、しっかりと発言し、良い社会に向かっていくようにしましょう。

 商業主義でないグローバルな知識の集合が進み出す夢(ナレッジネットワーク)を描いて、今年も、考えていることを書き続けていきます。皆様にとりまして、本年もハッピーな一年になりますように祈念しております。

文化財のものづくり記録をデジタル化するには

文化についてその記録と伝承方法を考えてみたい。文化には建造物、絵画、彫刻、有形な物と芸能演技や工芸技術などの個人や集団が受け継ぐ無形の技術がある。今流に言えば、ものとコトの違いと言っても良い。どちらも物理的に存在しているので、誰でも見ることはできる。コトであってもも、その訓練や具体的な表現によって他者も見る事ができる。しかし、誰も真似ができないコトでもある。

  ものの文化財はその材質、加工方法やそれが造られた背景などを分析することや、古文書などによって研究する事ができる。無形の文化はその人が生きている間に継承をしていくことで絶やすことないように努力されている。

 どちらの場合でも、人というものがその文化の感じ方や心などを伝えていかなければいけないことである。文化は地理的な条件により、その国、地域に根ざす人の集団と共に継承され続いていく。

 文化を壊すことは、それまでの民族の歴史を壊すことと等しい。未来に責任を持つ行動をしたいならば、歴史的文化を大切にしないといけないのは自明なことであろう。そして、過去から引き継いだ背景や心を語り続ける必要がある。

 そのように思うのであるが、私には残念ながら語れる文化の知識が無い。文化に接することは、結構あるが、時間軸に体系的にその文化財たちを繋げて理解できていないのである。説明をお聞きしても、頭の中に記憶できないのである。これは、それぞれの文化財を個の財としてしか知識の獲得をしてこなかったのが要因である。いかに縦横に流れとしてものごとを理解することが大事であるかを物語っている。

  歴史研究家を集めると、一体、この国はどのような背景を経て文化が生まれ、継承し、変化してきているのかを体系化して説明を聴くことができただろうと思う。若い人は、そのような視点でこの国の歴史・文化を学ばれると興味が湧くのではないかと思う。知の集合化が必要だと思う。

  もっとあの人にいっぱい聴いておけばよかった。学んでおけば良かったと後悔することが多くある。ものづくりが盛んな国であるが、形式的な物にだけ着目していては、海外にドンドンと遅れることになるだろう。歴史上の文化財になるかも知れない物を作りたい。そのようなパラダイムチェンジを意識してものづくりをすべきだと思う。

  コトはもっと深刻な課題となってきている。どのような意味や意図をもってコトを成そうとするのか。文化として何を引き継ぎ、何を超えようとしているのか。それによって、どんな感動を与えようとしているのか。人が未来に向かって引き継いでくれるように、真剣にそのコトを研究し、表現をしようとしているだろうか。

  いろいろな分野、作風、芸風があるだろう。ものづくりのコトも同じである。日本はコトの継承が弱すぎるように思う。大事なのは物の前にある人の思いや考え方であるコトにある。文化においてもコトの知識の蓄積があると良い。そしてその知識人の知をインターネットで集合できると良いだろう。そしてコトの革新に挑戦して欲しいと思う。

インターネットから隔絶された環境に身をおくことのできる登山の良さ

登山の魅力は黙々と頂上を目指して登ることで得られる達成感と爽快感。日本百名山の写真集を見つけると、登ってみたくなる気になる。厳しい絶壁に張りついて、一歩一歩足を運ぶ無の境地。きっと下界の苦悩は考える余力もないだろう。何かに集中するとこのような心境になるものである。

 どんなことでも集中できることや物があると良い。日常生活のストレスを和らげる事ができるからだ。絵を描く、器を作る、本を読む、スポーツを観戦する、掃除をするなど何でも集中できることを見つけることを勧める。要するに忘れることができなければいけないと思う。今の時代はインプットが多すぎる。その多すぎる情報に漂わされているような気がする。

 インプットしたくもない情報を知らせれることは何とか無くせないものかと思う。だから山に登って無心になると気持ちが入れ替わるのではないだろうか。現代人はインターネット環境に染まり過ぎている気がする。私も完全にその世界に入り込んでしまったひとりである。

 インターネット環境から逃げる手段はと言えば、電波が届かない、電気の無い場所に行くしか無い。そうでもしなければ、ついスマホを手にしてしまうからである。ゲームをするのではなく、SNSに誰かが投稿していないだろうか、メールは来ていないだろうかという行為を毎日、何十回も行なっているのである。

 インターネットが無ければ、そのような過ごし方をしなくて済む。今、自分に欲しいのは、そのような環境である。それには、自分自身で努力して耐えなければならない。かえって耐える事がストレスになってしまうのである。もはや逃げ場のない状況になっていると思っている。

 仕事と仕事でない事の境目が無くなってしまったと言える。仕事のようにスマホを操作することと、遊びのようにスマホを操作することの区別をつけれない状態になっているのである。ある時仕事の関心に操作され、そのうちに遊びの関心に操作が移っている。このような事ができない場所として、登山がある。このような考え方は純粋な登山家にはおかしな動機に思われてしまうだろうが、インターネットから逃げるには登山が良いと思う。

 登山をするにも準備やルートの計画は必須である。そのような事に集中する期間も作れてくる。その間、少しでも目的の薄いネット検索は減らす事ができる。今日の生活は、いかに自分が集中できることを見つけられているかどうかでが大切であり、貴重な時間を有意義に過ごせているかを決める1つのパラメータになっている。

 このようにインターネットから隔絶された環境に身をおける場所を求めているのが、最近の自分であると認識している。外部の電波を遮断した場所が都市の中に作られても良いのではないかと思う。