音楽の連想性を参考に製造業のものづくり知識の検索に生かす

音楽は人をリラックスさせる。年末になると音楽の番組が増えてくるのが嬉しい。と言っても、最近の横文字なにがしのグループには全くついていけないが。筒美京平さんの特集は懐かしく、青春時代を思い出させてくれた。私もいつか自分で演奏したくて、50歳を越えて、エレキギターを5年習っていた事がある。これは長年の夢を会社を辞めたことで、自由な時間が持てるようになったから出来たこと。

 しかし、ここ10年は、仕事が多忙でギターも触らなくなってきた。どんなに忙しくてもギターを触っていた頃も続いたが、最近2年間は、それは無くなってしまった。ギター鑑賞だけで恥ずかしい。音楽というものは、心に余裕が無い時は聴くだけしか出来ない。心に余裕があれば演奏しようという気になるものだ。もちろん、音楽を生業にされている方は必死なのだと思う。筒美京平さんはヒットメーカー。ヒット曲を生み出す事に必死だった様に見えるが、それを成し遂げた事が本当に凄いと尊敬している。

 音楽を聴くと、その頃の思い出が脳裏に浮かぶ。この連想性は、どこからくるのだろう。知識の記録方式を考えているので、音楽もその観点から眺めている。連想性だけでなく、歌うこともできる。楽譜が頭に記録されているのではないがおおよそ歌えるのである。音の流れとして旋律が次々と出てくるからである。これは、ひとつのストーリー記憶である。

 全てを、そのもの通りに記憶することは困難である。しかし、歌い始めの部分だけ教えられると続きを歌えるという方法が価値がある。デジタルデータであっても、全てのデータを記録して、そのものから全部を検索するのではなく、先頭の旋律だけ記録させておけば良いという考え方もある。どんな用途のために検索をするかにもよるが、連想性を人の能力に依存する方法でも良いかもしれない。検索範囲を曲の頭だけでも良いだろう。

 ものごとを丸暗記しても活用はできない。それはすぐに忘れてしまう。連想性を持った検索と検索結果の表示が重要である。これはコンピュータがヒントを出してくる様な方法である。意味の記録ということをして、キーワードに頼らない見つけ方を発見したいと思っているのである。音楽もその様な方法で記録したいのである。

異なる知識経験の集まりでの相互理解の難しさについて

意図していることや思いは、述べられないことが多い。私達はなぜと聞くことが少ない様に思う。素直に相手の話を聴く姿勢が普通で、かえって、なぜと聴く時は、自分は賛成しないような時だけの気がする。これは私だけなのだろうか?逆に言うと私はなぜを説明しなければいけないことが多い集団に属して来なかったからだと思う。

 日本人の特質であるようなご意見も見受けられるが、私はこれまで家族と会社の2つの集団にしか属していなかった。その為に、特別な理由を求められることが少なく、私も理由を求めることが少なく、居心地の良い同等知識の中だけで生きてきたからだと思う。

 それが、会社を離れ、多くの他企業や公務員などの人達と接することになり、どうもこれまでの解釈では、お互いの意見が一致しているのか、一致していないのかが分からないことが多くなってきた。会社員であった時と今では、その違いを強く認識するようになった。そしてなぜを口にする機会が多くなってきたのである。

 社会にて労働の場が流動化し、企業への社員の出入りが多い企業では、なぜと聴くことが増えていると思う。都会は流動化しているが、田舎はそうはなっていない。流動化すれば他者や他社の知識を獲得することができる。流動化しない田舎との情報格差は広がるばかりだと思う。なぜと聴く機会が少ないのは問題だと思う。

インターネットがそれを補っているかと言えば、そうではない。インターネット上のどこに自分が関心を持つことの「なぜ」が載っているのかが分からない。その道のプロを探して、その方の周辺の意見も確認しながら自分なりの理解をする必要がある。このような手間のかかることを人はやらないだろう。私も大変面倒くさく時間を費やされるので好きではない。結局は書店で本を探すことになる。

 詰まるところ、自分が会うべき人をどのように見つけることができるかではないかである。いろいろな事を知っていて答えてくれる人を探す方法だ。これは企業の中でも、少なからず発生している問題点である。企業内のローカルネットワークの中で、知りたいことを教えてくれる人を見つける方法が有れば、それをインターネットに拡張すれば良い。しかし、企業の中でも上手く行われていないと思っている。

 知っている人を探すには、その人の思考や経験や語りなどが公開されている必要がある。それには、コミュニケーションが真摯に行われる場が必要だ。そこに参加する人達の動機も重要であり、何らかの統制にて平和な場であることを欲している。

デザイナーの発掘と育成に燃えた山本寛斎さん。製造業も同じく燃えよ。

芸術家だけではなく、小説家も、社会人も何かをやり遂げようとして努力を続けている人は、その道において、少なからず、このようなことを守り抜きたい、悟った、このようにありたいと言うような境地に至るものである。それは、幾多の試行錯誤を経て、年月を経て獲得することができることと思う。

 最初は、先生や指導者から育成指導され、失敗もして到達する自分だけの領域を発見するに至るのであろう。それには、情熱というものが必要であるが、これが継続しないので困る。

 先日、山本寛斎さんのドキュメンタリーをTVで見る機会があった。確か“苦しい時でも、道はある”といった題であったと思う。特別に服のデザイナーに興味を持っていたのではないが、その題に惹かれ見入ってしまった。

私は山本寛斎さんの生い立ちまでは知らなかった。とにかくガッツのある人だったと感心してしまう。スーパースターが苦労もなく、その位置に到達したのではないことで、尊敬の念が沸き起こったのは私だけではないだろうと思う。

 山本寛斎さんは若いデザイナーの発掘と育成に貢献していたことを初めて知った。とにかく尖って個性を大事に、屁古垂れることなく、必死になどの言葉にあるように、行動と思考が一致した方であったと感じた。

 翻ってみると、このような熱い方が、どんどんいなくなってしまっているように思う。経営者の中にも熱い方が本当に少ないのではないだろうか。自己を捨て身で、社員に対している人が少なくなっている。表層的な売上高や株価などに視点が移り、社会にどのように貢献しようとしているのかが伝わってこない。

 一度発言した方針を、いつか語らなくなっている。そのうち忘れてもらえるだろうと考えているならば、多いに反省して欲しいと思うのである。このようなことが、いつ頃から始まったのだろうかと思うと、インターネットが世の中に浸透し始めた2000年前後のように思える。あまりにも表層的なビジネスが乱立してきたように思う。特に人を介さず中抜きのような、ITインフラを競争に使っていることは残念でならない。

 そこには心や情熱が人に向けられていない。企業は社会貢献であるべきで、その結果として収益が入るのだと思う。社会貢献的な発言をしているが、実業は、単なる物売りやサービスでしかないことになっていないだろうか。このようなことも自由なのだから問題はない。

 しかし、それでは、人の社会は崩れていくのではないかと心配している。境地と言うと、それは個人が至る心かも知れないが、長く企業に勤める社員が、何らかの境地を獲得することなく過ごすことは多いにもったいない生き方ではないかと思うのである。境地の事例が公開され、企業人のマインドを見聞きする機会がもっとあると安心することができるかも知れないと思う。

 山本寛斎さんの活動は、デザインされた服と日本元気プロジェクトに明確に記録された。そのプロセスを一緒に携わった人達の心にも、しっかりと刻まれている。このような境地の記録が動画と語りでの紹介は大変分かりやすかった。

製造業のための技術検索システムが必要だ。

検索システムの開発が必要ではないかと考えている。商業用途に付加した検索システムでは、知識を獲得したい知的好奇心の人には満足できないと思う。今は、そのようなツールが無いので、仕方なく商業用途の検索システムを使っているのだと思う。そうではなく、知りたいことを知ることができる検索システムというものは無いのだろうかと思うのである。

 このまま不必要な情報が膨張していき、その中にほんの少しだけの考えることに必要な知識が埋まっている状態が続くならば、この検索システムはどんどんと使えないツールになっていくような気がする。

 商業用途と学習用途に検索システムが分かれている必要があるのではないだろうか?そうすれば、子供にも学習用途で使って貰えることができる。商業用途であると儲けたい人が子供向けにはふさわしく無い広告などをWebに登場させる。これは、きっとイタチごっこで、今後も完全に排除することはできないだろう。排除しようとする倫理観は、儲けようとすることと明らかに異なる立場であり、対局にあるからだ。
 
 本来、学習用途の検索システムが存在していないといけないのだと思っているが、そのような動きはあるのだろうか。商業用途の中に構成すべきものとは思わない。
では、学習用途の検索システムは誰が開発すべきなのだろうか。それよりも、誰が開発できるかの方が問題のように思う。

 学習用途の検索システムを開発するには、検索技術ということが問題になるのではなく、学習とは何か?どのように人は学習しているのか?などの知識獲得の仕組みについて探究している人が適切である。ユーザーが開発すべきである。それはは誰かという問題であると思う。情報システム企業に丸投げすることで完成するとは思わない。

 たぶん、大学や企業の中のデータは学習用途に適する情報がいっぱいあると思う。そして、そのような情報から利益を得ようとすることから、商業用途の情報に全く内容が変化しているのだと思う。

 したがって、大学や企業における学習用途に適する情報を外部の検索システムに登録されれば、商業用途の検索システムと別な情報蓄積のネットワークが構築できるだろうと思うのである。

 ものを売り買いすることと、知りたいことを知ることは別な欲求である。少なくとも前者は金銭が伴う。後者は研究の意欲が伴う。後者には、科学、社会、歴史、文学、数学、、、、あらゆるものが対象である。wikipediaがやっているようなことを外部に切り出し独立化して欲しいのである。その上で、検索システムを作ることができれば良い。明らかに検索処理は異なる方法となるだろう。知識の記録方式もこれまでとは異なるものとなるだろう。来年は、こんなことをもうし少し考えてみたい。

製造業のデータ検索は人ではなく技術を対象にすることが重要です。

知識の記録方式において、記録した知識をどのように検索するかは重要なことである。見つけることのできない記録など意味がないことである。現在のホルダー名称、階層、ファイル名における問題とファイル形式や、ソフトウエアの違い、保存場所の違い、OSの違いなどによる問題とソフトのバージョンアップによる過去バージョンのデータの互換性の問題などの解決方法を考えなければならない。

 更に、検索の方法そのものについても、解決しなければならない。それは、現状の検索ツールを使っても、欲する情報を得ることができているかという点では、不満足である。欲しない情報が混ざっている。検索結果が膨大であり、その表示順番はユーザからみて、コントロールできないことなどである。結局、探すことに多くの時間とストレスを感じているはずだ。私もその被害者である。

 少なくとも、自分で作成したデータはすぐに見つからなければならない。企業の中でも、欲しい情報はすぐに必ず見つからなければならない。このことに対して、行っていることは、ホルターとファイルの名前の付け方の工夫に依存している。そして、ファイルを開かないとそれが欲しい情報であったのかが確認できない試行錯誤作業を繰り返している。この方法からの脱却が必要である。海外との共有にもファイル名が理解できないという問題がある。

 異なる経験を経てきた人達であっても、誰でもそれぞれが欲する情報を見つけることができることができなければいけない。そして、更に、自分では当たり前なことだと思っていたことが、そうでないことが気づくとか、知ることができるとか、見えていなかったことを知ることができるなど、このようなことが実現できなければ、知識を記録した価値が生まれない。知識の記録方式はその情報を活用できて初めて価値として認識される。

 人の記憶をうまく利用しながら、検索の方法を考えることが現実的な方法だと考えています。検索だけで、単語だけで、本当に知りたいことを見つけることができないのは分かっている。その単語すら忘れてしまった場合にどうすべきかに関心を持たないと活用ができない知識の記録方式になってしまうだろう。そこで、人が記憶できていること、それも誰でも(殆どの年齢層の人が)記憶していることを用いて、知識を検索する方法が良いだろうと考えている。ある点では、心理学的な研究成果を利用することが有益だと思っている。

 このようなことを考えて、知識の記録方式の開発を進めていきますので、今後とも、引き続き宜しくお願い致します。