知識の記録法と曼荼羅への畏敬の念

以前、曼荼羅のように知識の記録方式を描いて見ようとしたことがあった。なかなか体系的に整理ができていないので、全体が納得できず、部分も部分との関係においてすっきりとしなかった。かつて考えてきたことを全体図にしようと挑んだのであるが、結局は未完成のままである。そろそろ再チャレンジしてみようと思う。

 何を描こうとしていたかであるが、それは漠然としたテーマでは難しいので、グローバルものづくりというテーマでその中に必要であるはずの(存在するはず)言葉を書き始めたのである。しかし、それには目的語が必要となり、良い品質を低コストで生産するグローバルなものづくりということにしたのである。そうすることで、かなり範囲が縮まるので、少しは整理できそうに思った。ところが、それほど簡単ではなかった。

 例えば、PPのスライドの一枚、word の一節、メモの数点、写真の数枚を作図ソフトの中で1枚に構図を考えて配置して、それぞれの素材の関係についての線を引きながら、関係についての観点を記載する。その1枚に記載されてたものを全て選択し、グループ化して別のシートに縮小して貼り付ける。同じことを他のPPやwordの一つのテーマについても行い、同じように全体をグループ化して縮小し、先ほどの縮小したシートの中に考え方の構図を決めて配置する。

 すると1枚のシートにぎゅっと詰まった情報の塊が完成する。この1枚を見るだけで、PPやword に分散記載された考えに目を向けることができるようになる。どのファイルに、どのシステムに何を書いたかをすぐに忘れてしまうことを解決しなければ、今後の思考が重複や不一致など非効率になることを心配しているので、一度まとめた絵にしてしまうことをやってみた。人に物事を説明するには部分的に行いストーリー性を重視するが、記録するには、全体が一目で見られるようにしたい。

 これはこの時点では良かったのであるが、その後は、時間経過と共に思考の変化や成長をメンテナンスができず、面倒なのでやめてしまった。無謀なことであった。浅はかな私のチャレンジは失敗であった。最後はうまく一枚の絵に描けないのであった。

 記号の曼荼羅の図はわたしには読み取れない。そして作図のルーティンがあることとその意味も理解できていない。しかしかつての偉人は、この図を用いて、何百何千もの悟りを説明したのだろう。そのカテゴリーは幾多にもわたるものであったのだろうと思うと畏敬の念がやまない。

 一つ一つを別々に表現するのではなく、まとまったイメージにして、体系化すること、記憶することができる。それぞれの仏菩薩の真理の位置付けがなされることにより、記憶できるらしいのである。絵と思想が連想されるようにできていることは、人の教えを受け継いでいく、そして進化させていく手法として、知識の記録方式の研究には興味を持たざるを得ない。

製品の取説にみるデジタル化の氾濫

取説、取り扱い説明書についてその不便さを紹介したい。昔は取説は全て紙で作られ、購入した製品には厚い取説が同梱されていた。いつしか、この取説がデジタル化され、インターネットで検索する方法に置き換えられた。私の経験からすると、この変化は初代IPHONEの発売からであった様に記憶している。それは、手にしたIPHONEの箱には数ページの紙しか入っていなかったことと、その使い方をインターネットで調べて理解した記憶が鮮明に残っているからである。

 その後、購入した製品は紙による取説がなくなり始め、今では、それが当たり前のこととして社会は受け入れている。しかたなく、受け入れているだけと思うが。しかし、デジタル化されインターネットで検索できる様になったことで、便利なこともある。それは、分厚い取説を家庭に貯蔵する必要がなくなったことだ。最初は読むが、一旦使い方を覚えてしまうと邪魔になるものであった。

処分してしまうと、問合せ窓口に電話して聞くしかなかった。この問題がなくなり、いつでも、古い機種の取説でもインターネットで調べることができる様になったのである。これは大変良いことだと思う。これが知識の記録方式の一例である。知りたい時に即時に知ることができることを満足させる方式であるからだ。

 取説は製品に関する知識をまとめたものである。その取説がインターネットに山の様に存在している。この様な状況となっているのであるが、結局は、メーカ別にサイトは分かれていて、同じ様な製品を比較するにしても、このデジタルデータは全く効率的に収集できないのである。

本来であれば、取説レスで誰でも操作できる製品であることが望まれるが、身の回りの製品がほぼ自動化されることは遠い未来であるだろう。デジタルデバイドが問題となっているのだから、せめて、取説の記述をルール化し、目的からもっとスムーズな検索ができる様にして欲しいものだ。

 取説には絵が必要である。絵がなければ取説は役に立たない。絵は、人に分かりやすく説明するために、一番簡単な方法であるからだ。絵を一切使わないで、相手に説明をするのは不可能である。メールを使っているのは、絵のない取説を使ってコミュニケーションを行っていることと同じくらいに伝達が難しいということを理解すべきである。絵葉書は単なる文だけの葉書よりも、その気持ちを共有することがしやすいことと同じである。

 私たちは、IT技術の波に漂っている。どこにいるのかも、どこに向かおうとしているのかにおいても他者であるIT技術の変化に委ねてしまってはいけない。IT技術の波の上で、その先を見定める役割と責任がIT関係者には必要であるのではないだろうか。

デジタル化することだけを目的にしていると、波に漂うだけの非生産的な混沌とした情報社会に囚われてしまうのではないかと危惧している。デジタル化した先にどのようなことについて、社会として価値あることが行えるようになるかを考えて進まなければならない。それは一体、この国で、誰が牽引役になるのだろうか。

現場観察と知識の記録により製造業のDXを加速する

ものづくりという領域において現地現物と知識の記録方式の関係について説明する。

 ものづくりでTPS(トヨタ生産方式)は何をやっているのかと言えば、現地現物の確認である。オフィスで考えたことなど、ほんの一部に思考が留まり役に立たない。現地現物でフィールドの探検をし、その後、サイエンスに持っていくことが必要なである。サイエンスに持っていけていない企業が多いと思う。

 人の思考力などはまだまだ進歩していないのである。そして記憶力も特段の進化をしていないのである。その中で、進んだ業務、商品化ができる企業と、できない企業の差は、その構成メンバーの能力や組織力の差である。皆の知識を整えることは組織における意思決定が正しい方向に向いていくものである。

 知識差のある構成メンバーや組織間では、信頼にたる能力やリーダシップを周囲から認められていない状態では、間違った意思決定の繰り返しになるのである。日本のものづくり企業はかなりの企業で間違った意思決定の状況にあるのではないかと推察している。これは企業規模の大小に関係しないものである。

15年間のコンサルの中でも、上場企業でも呆れる発言を多く聞いてきた。このようなことが、欧米の新事業や新ルールの後手となっている要因ではないだろうか。


 
 以前、自動車会社に務めていた時、工場における改善事例を工場間で共有し、その横展開の状況を可視化した改善事例システムを開発し利用した。学び合う風土は大変良いものであった。


 どんなに風通しの良い職場でも人の真似をしたくない、自分の考えが正しい、人の意見を聞く必要はない、相手のいうことが分からない、腹に落ちないなど個人の気分で組織運営するマネージメントはたくさんいる。昔のマネージャは割りとこのようなことをはっきりと発言してリーダシップを発揮していた人が多いと思う。

しかし、それができた理由は、マネージャー自身が人1倍の努力をしていたと思う。工場の現場をいつも歩いて、観察をしていた。その結果を組織に問いかけし、自分で答えを持って、組織運営していた。
 
 ところが、今日の製造業はどうなっているのかと思えるほど、実力が低下しているように見える。表層的な学びや思考で組織運営するマネージャが多すぎる。その姿を見て、それを真似する若い人が多すぎる。

 このように考えて、かつて読んだことのある知識経営のすすめ(野中郁次郎/紺野登 ちくま新書)の本が思い出された。この本は学者が書いているものであるが、私は実務者が知識をどのように蓄積するかという研究で特徴点記述法を見出してきたものである。特に著者の場の話は共感できる。そして特徴点記述の発見がそのIT的手法ではないかと思っている。

テレワークは働き方改革の基本。テレワークを実現するために何をすべきか?

新コロナの感染者が三度増加してきている。このような山を何回も越えなければいけないのか、ワクチンが効いて数年で収まってくるのか検討もつかない。少なくとも、来年も同じ危機意識で生活をしないといけないことは間違いの無いことだろう。

 人の往来が減れば、感染者は減っていくということは事実であるだろう。人が往来しなくても仕事ができるようになったら、それは、どの程度まで感染者が減るかは推定できてもおかしくないだろうが、感染者の増加予測ばかりしかし世の中には公開されていないのだろうか。

 テレワークができなくて、職場で働いていだだけないと、社会インフラが止まってしまう職業に従事している方は移動が必要だろうと思う。ならば、それ以外の職種の方は、何パーセントになるのだろうか。その人達が、しっかりとテレワークに取り組むことも、立派な社会貢献であると思う。このままでは感染者が増えるとの言い方だけではなく、このようにすると、感染者はこれだけ減るとの複数のアイデアと効果を説明してくれれば、もっと行動変容に対する皆の意識は高まると思う。

 テレワークができない理由は何だろうか。特別に顔を見なくても電話やメールで相談もできるだろうと思う。資料が会社にあることが問題なら、クラウドに置けば良い。そのコストが負担ということなら、公的に負担をすれば良い。テレワークが可能であるはずの職種なのに、テレワークができない理由は何をはっきりさせ、その課題を解決することを行う政策が見えない。企業に任せすぎているように思える。企業は企業や個人と結びついて生業ができているのであるから、一つの企業だけではテレワークができない課題を解決できないはずである。

 日本はITの活用が下手だとか、労働生産性が低いと思っているのであるから、このような動機がある時にテレワークにより生産性向上を図るべきだと思う。ハンコの押印だけがテレワークのブレーキとは思えない。もっと、見直すべき古い風習や文化が隠れている。私の知っている企業では、今でも決裁書類に20人位の押印を行なっている企業がある。ここまで押印すると、それぞれの責任はより小さな範囲となり、個人能力は成長しなくなる。大きな責任を持たせて経験させることが成長につながるはずである。失敗を恐れて、その責任を負わない風土には、このような事例が見られる。

 もう一つは、企業自ら、ユーザー自らシステム要件書が作成できないのではないか。私はものづくりのコンサルとITコンサルの両方を行なっているのでよく分かっている。いつの間にか、ものづくり企業はシステム要件を外部依存してきてしまった。まずは提案を持ってきて欲しいという話が多い。企業は自ら何をやりたいのか、それはどのようにしてできると考えているのかを文書にするべきだと思う。

 外部依存を始めると、それを受けるベンダーが増えてくる。考えないエンジニアが増えてくるだけで、企業に人は育たない。テレワークを進めたいが、実務が企業内でどのように回っているのかの文書すらない。そうであるならば、まずは、自部署を中心にして、前後工程(組織)とのインプットとアウトプットを整理することを進める。その時に自部署の役割や価値を良く考え直すことが必要と思う。以前にも述べたが、業務が単純化の方向で行われているかを自問自答することは、どんな環境下においても重要なことだと考えている。

製造業のIoTは目的が大事、人の仕事の自動化が進まなければ効果は出ない。

 IoTやDXという言葉がメールマガジンなどに数多く登場している。いずれもIT技術で業務の自動化をすることだと思っている。自動化と言っても、小さな自動化に視点が向いていないか心配である。むやみにデータばかり取得しても、何か新しい発見があるかと言えば、科学的、論理的に説明のできないことが表現されるばかりではないだろうか。いかなる発見も仮説に基づいてなされるものと思う。

 したがって、何を知りたいのかを明確にし、その為に、どんなデータを取得すべきかを考えることが必要である。データを取得するセンサーはどこに配置すべきか、どんなサイクルで取得すべきかそれを他のどんなデータと処理を行うのかなどを考える組織とそうではない組織とでは、成果が全く異なるのは当然だと思う。

 もう一つはwhyだ。なぜそれを行う必要があるのか、本当に効果はあるのか、どれだけの工数削減になるのか、企業の生産性は30%以上向上するのかを考えるべきだ。まずやってみるということに反対はしない。しかし、やる前に分かることが多くあるはずで、なぜやってみようとするのかを問いたい。

 まずやってみようとというならば、何のためにまずやるのかと言う理由を明確にすべき。チームの意見が纏められない時にリーダーはこの言葉を良く使う。そんな時、リーダーには自分の金と工数でもやってみようとするのかと確認することにしている。この行動は、一種のマネージメントからの逃避である。

 なぜIoTがマネージメントの話になるのかと言えば、IoTの指標は工数低減であるからだ。工数と投資とタイミングの責任はマネジメントにある。IoTが進まないのはマネジメントの意識が希薄であるのではないか。それを担当に任せていても進むものではない。担当は自分の守備範囲を決めて仕事をするしかないからだ。マネジメントは組織や守備範囲を超えて仕事をするものであるからだ。

 IoTは組織横断的テーマを持たなければならない。組織と組織との間の考え方のつながりが属人的である。ベテランにより正しかろう判断で組織間の問題解決を行なっているのが現実である。


 IoTが自動化を組織間の問題解決に適応させようとすると、このベテランの判定を自動化する必要が出てくる。実際に行っていることが本当に価値があるのかを考え、価値が無いならやめればいい。価値があるなら、その方法の良否を分析することが必要である。重箱の隅のようなデータがばかりを比較していないだろうか、もっと大きな観点でデータを見ることで十分な結論に至ることもある。

 IoTは目的ではないのであるから、何を解決したいのかをしっかりと共有し、無駄な工数や投資を減らすことが必要だ。そして、この議論は一企業だけ進めることができないこともある。サプライチェーンの中での生産性向上を目指さなければ、目的が達成できないこともあり、実は、この達成できない目的が企業の生産性を低下させていることもある。例えば、品質の確保と維持がそれであろう。