教科書はもういらない時代へ
教科書を読んだだけでは理解されないことがある。人に聞いてもわからないことがある。人それぞれに理解の深さが異なるものである。学校では知識を教科書から得る授業が主体であるからだ。学びの方法は、この経験を通して個々人が身につけていくことになっている。学びの方法を身につけられていないことは、現代社会においては調和的建設的な生き方が難しいのではと考えている。
リテラシーという言葉が使われる時代になった。新しく出現した概念やものについての理解や知識があること言うが、社会人となってから出現してきたことに、どのようにリテラシーを身につけていけば良いのだろうか。それは知的好奇心を持ち続けるしか動機づけはない。今、従事している仕事のはリテラシーという部分が存在していないこともあるだろう。世の中の情報を自分の動機づけを維持しながら興味関心を維持する事は容易な事ではない。ノーベル賞を受賞した方々は、きっとライフワークとして研究をされたはずだ。
しかし、そのような研究的なことをリテラシーとは言わない。これから普通の常識として広がっていくもの事に対する、平均点に到達していない知識不足のことだ。私はリテラシーという単語が好きではない。今、世の中で使われているITリテラシーは、単にパソコンが操作できることの程度の使い方である。そんなことをわざわざあかるかどうかを横文字でいう必要はない。横文字にして、あたかも新概念であるかのように思わせて誤魔化されていないだろうか?
操作の方法を知ったところで、それは作業方法を知っただけで、考えることがうまくなったこととは程遠い。学校での教育も、考える授業であるべきだ。考え方はいくつもあり、正解がない、あるいは、いくつもの解き方があるということを知り、その思考過程の中で、学びとは何か、学び方を身につけて欲しいものだ。きっとこの姿勢は永遠に続けられるしかない。学ぶ対象は宇宙のように膨大で膨張していくのであるから。
学び方を発見する教育へ
子供の頃から、知識と学びは違うことであるを教えないといけない。頭でっかちと呼ばれる人は知識はあるが、自分で考えることのできない人のことをいう。現代社会において、この頭でっかちの火星人が増えているように思う。具体的な事象の上に学びが得られるはずが、事象を読んだだけでは分かった気になるのでは困る。インターネットにある文書をコピペして、いかにも自分の考えたことだと報告する社員がいる。インターネットの無い時代では、それはできなかった。ITリテラシーはあるが、何か大切な教育が欠けているのでは無いかと思う。
学校教育にパソコンが入っている。学びという点でそのコンテンツは単に本のデジタル化に留まっていないだろうか?これはまた同じ頭でっかちを作ろうとしているのではないか?教科書を読んでも学びが得られない。このことに対する対策がパソコンを用いた教育の中で行われなければならない。このように問題意識をもって学習教材を考えている。
特徴点記録法により知識を自由に獲得できる21世紀の教科書を作りたい。
教育は事例の理解をたくさん行い、関連する事例に展開できる機能が必要である。それは、検索に依存する探すことを行う必要のないやり方でなければ、思考がそがれてしまう。知りたいと思えば、どんどんと広がっていくことのできる機能が必要である。習得する順番は規程されていても、その範囲は自由に広げられるようになっているべきだと思う。
このようなことを実現しようとするならば、単に本をデジタル化しただけでは不可能であることは自明である。その中で何を思い、どのように考えたかを書き込む機能が必要である。そして、そのことを他者と共有して、同じ知的好奇心をもつ人達と議論ができる機能が必要である。これらの為には、お互いに知っていることを参照登録でき、その結果が絵本のように表示されなければならない。このような機能を実現する際にも、特徴点記述法は有効である。そして何人も同じ知識獲得の環境を平等に享受できなければならない。