私は都市に住んでいるので、大きなビルや交差点などが頭に記憶している。ある意味、自分の都市の中を、自分が知っているビルや交差点によって自分なりの地図を保有している。その地図はタクシーの運転手とは程遠いレベルな簡素な地図である。しかし、人と会話する際には、その程度のアバウトさであのビルの東側とか、交差点の北側100mとの言葉づかいだけで十分に会話を進めていくことができている。詳細は不要なことが多いのである。
今回の論点は、このようなアバウトなお互いの認識で済むことに対し、情報システムはあまりにも細かい単位だけで処理が行われている。その結果が、知りたいことを知る手間に時間をかけてしまっていることはないだろうかと思っている。
はっきりと分かっていることから、その周辺のビルや様子を追加の知識として獲得していく。外の位置関係として自分の地図に少しずつ情報を追加しているのだと思う。そして、覚えたことを時々忘れてしまうのでもある。しかし、昔この近くに来たことがあるとか、よく通った喫茶店があった場所などは、おぼろげながら見つけることができる。
これは、自分の記憶として忘れることのないであろうビルや交差点を目印とした自分の地図に、位置関係と共に、知り得たことを記録しているのではないかと思います。
ものごとを遡り、記憶を探る方式は、このような間違いのない自分の地図を頭に描き、その近くにどのようなことが、起こったのか、それはどんな人が関係していたのか、どのような思いをしたのかなどを思い出すきっかけにしているように思う。
自分なりの地図から広がる記憶したことは、幹から枝葉のようにつながり、そして、他の木の枝葉に結合するように関係していく。このことをから、表形式にはデータを蓄積する価値は限界があり、その表は、違う視点や緻密化により、役の立たない粒度のデータと関係性と理解されて、再利用性が低下しているのであろう。
知り得た知識は、その枝葉の自在な適切な場所に記録することができなければならないことと、検索の入り口として誰にも明確な、地図のようなトピックをビジュアルにした分類による見え方が必要である。この分類は万人の理科できないような細分化は無意味な定義となるために、適度な分類にとどめ、幹、枝葉に展開してしまうのがよい。分岐される場所は目印となるビジュアルな絵で表示されながら、展開された知識についても他の知識との区別ができる絵であることが必要となる。
ものづくりに適用して具体的に述べてみたい。ものづくり企業には、ものを作る工場がある。その工場のレイアウト図が、その企業のものづくり知識をためる地図になる。その地図には、大きな設備と誰でも分かる建屋の柱番号が記されているだろう。設備以外にも、部品の置き場があり、人の作業場もあるはずだ。この配置図が企業内にものづくり知識を知るための入口となる。この配置図に対して、自分の知っている知識を大きな観点から順に記載すれば良い。自分の知っている部品の知識でもよく、その加工方法でもよい。また、外注先の名前でもよい。品質の管理規格でもよい。品質の管理規格ならば、関係する部品との規格値との関係について、幹や枝葉を超えた繋がりを関係づけた知識が記録できることになる。