取説、取り扱い説明書についてその不便さを紹介したい。昔は取説は全て紙で作られ、購入した製品には厚い取説が同梱されていた。いつしか、この取説がデジタル化され、インターネットで検索する方法に置き換えられた。私の経験からすると、この変化は初代IPHONEの発売からであった様に記憶している。それは、手にしたIPHONEの箱には数ページの紙しか入っていなかったことと、その使い方をインターネットで調べて理解した記憶が鮮明に残っているからである。
その後、購入した製品は紙による取説がなくなり始め、今では、それが当たり前のこととして社会は受け入れている。しかたなく、受け入れているだけと思うが。しかし、デジタル化されインターネットで検索できる様になったことで、便利なこともある。それは、分厚い取説を家庭に貯蔵する必要がなくなったことだ。最初は読むが、一旦使い方を覚えてしまうと邪魔になるものであった。
処分してしまうと、問合せ窓口に電話して聞くしかなかった。この問題がなくなり、いつでも、古い機種の取説でもインターネットで調べることができる様になったのである。これは大変良いことだと思う。これが知識の記録方式の一例である。知りたい時に即時に知ることができることを満足させる方式であるからだ。
取説は製品に関する知識をまとめたものである。その取説がインターネットに山の様に存在している。この様な状況となっているのであるが、結局は、メーカ別にサイトは分かれていて、同じ様な製品を比較するにしても、このデジタルデータは全く効率的に収集できないのである。
本来であれば、取説レスで誰でも操作できる製品であることが望まれるが、身の回りの製品がほぼ自動化されることは遠い未来であるだろう。デジタルデバイドが問題となっているのだから、せめて、取説の記述をルール化し、目的からもっとスムーズな検索ができる様にして欲しいものだ。
取説には絵が必要である。絵がなければ取説は役に立たない。絵は、人に分かりやすく説明するために、一番簡単な方法であるからだ。絵を一切使わないで、相手に説明をするのは不可能である。メールを使っているのは、絵のない取説を使ってコミュニケーションを行っていることと同じくらいに伝達が難しいということを理解すべきである。絵葉書は単なる文だけの葉書よりも、その気持ちを共有することがしやすいことと同じである。
私たちは、IT技術の波に漂っている。どこにいるのかも、どこに向かおうとしているのかにおいても他者であるIT技術の変化に委ねてしまってはいけない。IT技術の波の上で、その先を見定める役割と責任がIT関係者には必要であるのではないだろうか。
デジタル化することだけを目的にしていると、波に漂うだけの非生産的な混沌とした情報社会に囚われてしまうのではないかと危惧している。デジタル化した先にどのようなことについて、社会として価値あることが行えるようになるかを考えて進まなければならない。それは一体、この国で、誰が牽引役になるのだろうか。