考えることを放棄しない社会に

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人は考える葦であるとは古い言葉である。最近、この人、本当に考えているのだろうか?と思ってしまうことが多い。正々堂々とした意見をみんな言っているだろうか。言われた側も、それを真摯に対応しているだろうか。見ざる言わざる聞かざるでは、この国の将来はどうなるのだろう。皆が面白いと言ってくれるなら、何をしても良いのか?そんなことはない。

 予測を外れた挙動や行為に直面した場合に、人は驚く、呆れて、そして忘れるようになってしまったように思う。何でも法律は裁けない。そんなことは山のようにある。そして、法律が予測していること以外に多くの予測していない事例が起こっている。

 新型コロナウイルス対策もその一つ。もうじき一年になるが、まだ、行動を自粛することしか言えないって、おかしいと思う。科学的分析に基づく対策が具体的に10も20も述べられていなければいけないはずだと。飲食規制や行動規制という、誰でも言えることしか言い続けていない。その一段下の具体的なことを聞きたい。だから、考えているのか疑わしくなる。

 日本は貧困者が多いと言われている。彼らに手を差しのべるボランティアがいるのは嬉しい感謝したい。しかし、この問題を誰が真剣に考えているのだろうか?。それが具体的に見えない。それが苛立ちとなっている。つまり、誰もが言うような一般論ではなく、具体的にどう対策をしようとして、それにどのように取り組んでいるのか、どのように効果が出ているのかを社会の人は知りたいのである。責任者の顔が見えないのである。

 どうも表層的な議論に終始して、一向に深掘りする議論にならないのは、国も企業も社会も共通のように思えてならない。考えることを放棄していては、展望が見えないままになってしまう。

現在、もっと真剣な議論が湧き起こるべき環境下に私達はいるのではないだろうか。youtubueの笑いに逃避していてはいけない。若者はもっと、真剣に問題を指摘して討議すべきだと思う。それは自分達の未来の為になるからだ。諦めてはならない。

 考えることはお金はかからない。原理原則に立ち返って、見えていない、そして発言できていない言葉にしてみたら良いと思う。少なくとも言語に表現されなければ、皆に共有されない。世の中は、具体的な対策の言葉を待っている。

 私も長く生きてきた。もっと若い頃から考える習慣を身につけていれば良かったと思う。会社員であることが生きることではないのは皆が分かっていること。しかし、その仕組みや仕掛けの中に身を置くしかないこともあるだろう。

それは仮の生き方と思っていないと飛立つタイミングを逸することになる。考えない葦にならないようにしたい。10年後には、あらゆる価値観が変化するかも知れない。


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