意図していることや思いは、述べられないことが多い。私達はなぜと聞くことが少ない様に思う。素直に相手の話を聴く姿勢が普通で、かえって、なぜと聴く時は、自分は賛成しないような時だけの気がする。これは私だけなのだろうか?逆に言うと私はなぜを説明しなければいけないことが多い集団に属して来なかったからだと思う。
日本人の特質であるようなご意見も見受けられるが、私はこれまで家族と会社の2つの集団にしか属していなかった。その為に、特別な理由を求められることが少なく、私も理由を求めることが少なく、居心地の良い同等知識の中だけで生きてきたからだと思う。
それが、会社を離れ、多くの他企業や公務員などの人達と接することになり、どうもこれまでの解釈では、お互いの意見が一致しているのか、一致していないのかが分からないことが多くなってきた。会社員であった時と今では、その違いを強く認識するようになった。そしてなぜを口にする機会が多くなってきたのである。
社会にて労働の場が流動化し、企業への社員の出入りが多い企業では、なぜと聴くことが増えていると思う。都会は流動化しているが、田舎はそうはなっていない。流動化すれば他者や他社の知識を獲得することができる。流動化しない田舎との情報格差は広がるばかりだと思う。なぜと聴く機会が少ないのは問題だと思う。
インターネットがそれを補っているかと言えば、そうではない。インターネット上のどこに自分が関心を持つことの「なぜ」が載っているのかが分からない。その道のプロを探して、その方の周辺の意見も確認しながら自分なりの理解をする必要がある。このような手間のかかることを人はやらないだろう。私も大変面倒くさく時間を費やされるので好きではない。結局は書店で本を探すことになる。
詰まるところ、自分が会うべき人をどのように見つけることができるかではないかである。いろいろな事を知っていて答えてくれる人を探す方法だ。これは企業の中でも、少なからず発生している問題点である。企業内のローカルネットワークの中で、知りたいことを教えてくれる人を見つける方法が有れば、それをインターネットに拡張すれば良い。しかし、企業の中でも上手く行われていないと思っている。
知っている人を探すには、その人の思考や経験や語りなどが公開されている必要がある。それには、コミュニケーションが真摯に行われる場が必要だ。そこに参加する人達の動機も重要であり、何らかの統制にて平和な場であることを欲している。