製造業の3DCADはエンジニアリング機能に転換すべき

CADは良い面と良くない面を持っている。ここで取り上げたいCADは、いわゆる3次元CADシステムのことである。自動車業界で3DCADが製品開発競争のツールとして議論がされたのは25年も前のことである。この頃は自動車が海外生産にシフトしていた真っ最中であった。この時に仕入先を海外の中で選択せざるを得ないこともあって、図面の受け渡しをCADで行うにあたり、海外で一般的な3DCADを自動車メーカーは選択をしたのであった。

 この選択は、その時としては正しい選択ではあったが、将来を見据えた時には正しかったのかと言えば疑問が残る。更に、私は今のCADの方向性は間違っているとの意見を持っている。

 何故ならばCADは描画機能だとの範囲に留め、本来のエンジニアの欲しい機能は別にあるとの方向でシステムを考えるべきだと思うのである。エンジニアは形の前に、構造、機構など力学、物理学、、などのいわゆるサイエンスを基本にしてアイデアを実現する職業である。その思考プロセスを自動化する機能が必要であり、それは決して3Dモデルではない。解析に3Dモデルが必要なこともが出てくるが、そのプロセスは、基本の構造や機構などの設計がかなり進んだ後工程の仕事になる。

 そもそもCADにはその背景の意図が表示されていない。描画機能のソフトでしかないにも関わらず、無理な方向性を売りにしているのではと解釈している。単に形を共有することだけのものとしても、その形を人や機械がそのデータ精度のものを作ることができない。できるとしても、そのような高精度の製品を人は必要としていないことが大多数である。そして3Dモデルをコピーするという機能があたかも仕事の成果のように錯覚させてしまうことも問題である。

 分かりやすい形式を主とする後工程の機能だけを持ったCADが、その前工程の機能を開発をすることは、素直な開発手順ではなく、既存機能のCADありきの開発仕様になってしまうだろう。このようなことから、CADはエンジニアリングシステムにはなり得ないのである。

 そしてCADを知識の記録という視点で捉えると、以上の意見から、CADは設計プロセスの後工程であるので、設計意図の記録の媒体としては知識の記録方式の候補にならないと言える。

 別の視点としてCADのCADモデルの使われ方を見てみると、ものづくりの工場では図面(紙へ出力されたもの)を用いている企業も多いと思う。 例えば、図面に製造指示が記載して使われている。設計変更は手書きを加えて現場に分かりやすい表現にて伝達されている。現場は工程は変更もある。納入時期の変更なども書かれる図面ではなくても、その関係書類として配布されている。

 CAD端末ではなく、生産現場に主要断面をつけての紙での運営する理由は、ソフトの投資以外に根本的問題としてCADは操作を身につけることが難しいことがあるからだ。とにかく面倒な操作である。それも操作方法を記憶の限界を超えているのである。
 また、必要な断面をカットし適切な指示をする必要があり、そのことを現場自身が行うのは難しいため、生産技術などの技術者が解釈を付与して指示を出しているのである。

 設計は主要断面をつけるので、その部分の指示漏れはない。生産側はいずれにしても、全体から加工のポイント、留意点を読み取ることは必要。紙や別の媒体に簡潔な記述が必要で、この媒体が存在し続ける。

 サプライヤにCADデータを渡すにしても、必要なCADデータのみを渡すこととするが、どのデータを渡すかは設計の責任で指定が必要。サプライヤの要求は自分の担当部品の周辺との関係を知ることのできるデータを渡して欲しいのである。ミスをしたくないので、出来るだけミスのないことを確認できるデータを欲しいのは当然である。しかし、どこまで必要なデータを共有することができるかは、人の判断に依存している。必要な断面もサプライヤ自身でカットして検討も行われる。すべてのことが製品の設計者だけで検討が完結しないのである。

 製品のサービスにおいては、報告書形式で伝達されていることが多い。しかし、製品設計者からは、図面に問題点を記載してくれることが対策の迅速化につながると思っている。図面は誰でも理解できて、特段のIT操作も不用であることが有意性がある。

 やはり人間は技術検討は2次元である。形式だけなら3Dで良いが、見た目だけを職業とする人は少数であり、多くの業務では断面による検討の方が時間を費やしているはずだ。社会の情報共有はデジタルであるかは別にしても、今後も2次元であり続けるのではないかと思う。

製造業のデータモデルとは?それは製造現場の緻密な分析をすることで定義できる

なぜ知識とBOMの関係を考えることが必要なのかであるが、それは、最初のデジタル化される情報は設計が作成するBOMであるからだ。これが、ものづくりの情報の原点であるからだ。そして、この原点を起点に企業の関係組織のデータへと拡大されていくからである。

 もちろんBOMが完成するのは設計が図面を描いた後半分の期間であるとの意見も出るだろう。しかし、部品の共通化、加工工程の改造をミニマムにして投資を押さえる、既存の加工技術を採用することで素早い製品化と品質の安定を狙うなどを考えるならば、既存のBOMのデータを活用して図面を作成する手続きが自然である。

 既存のBOMを設計者が活用するならば、部品表の品番や品名だけでなく、生産の状況や市場での品質、製造原価などを知りたくなるはずである。

つまり、大きなPDCAが部品表に始まり、デジタルレビュー、試作、生産、市場品質を経て、次期製品開発にフィードバックされなければならないはずである。BOMは企業で用いられる基本的な分類なのである。

 無機質な英数字を主とした表記のBOMを見ただけで、その形状や工程を想像することは誰でも可能ではない。自分の専門分野のことしか想像できない。そこでものづくりの知識や品質の問題をどのように記録するかを考える必要が出てくる。誰でも書き込むことのできる方法はなんだろうか。それは図面になる。CADではない。この理由については後述する。どんな機能の役割の人であろうとも、その図面にその知識を書き込むことはできるはずである。製造現場の人が図面に書き込みながら作業をする姿を見たことがないだろうか。

 些細なことかも知れないが、ものづくりに対して、現場の作業がどのような配慮により図面に忠実に行われているかを知ることは、図面を描いた設計者は知らなければならない。しかし、海外の生産など場所の遠いところでの現場に仕事は知ることも難しい。それを知りたいという意識を持てば、そのことを実現する方法を考えるようになるはずだ。企業の知識継承をするならば避けて通れないことでもある。

 結局、エンジニアがニーズを発見するには、現場で起こっている問題を知ることであり、問題を知ったら、その原因を究明することであり、原因が分かったら、その対策をすることである。そして、設計者は二度と同じ失敗を繰り返さないことである。良い設計者とは、人としての倫理観をしっかりと持った者であって欲しい。それには過去の失敗を社内で共有していなければ、安全と品質のマネージメントは機能しないであろう。

製造業のBOMはものづくり情報の一部。データをつなげる基本となり得るか?

BOMはデータの作り手に依存したものであることの理解が必要

BOMは組立型の製品に用いられる部品表のことを言う。部品表は設計者が作成するものである。この部品表は、各社の個性が反映されている。個性というと聞こえは良いが、古くから運用している部品表の記述ルールにいくつか問題が出てきては、対処しているのが現状だと思う。


 品番の付与がその桁数と英数字の組合せだけでは不足している。その結果、品番が持っている意味が部品名を想像できない混沌とした状態になってしまった。また、工場内でのアッセンブリを、外注化し、アッセンブリされた1つの塊としての品番として表現をすることを区別できない。塊としてしか仕入先は納入しないために、塊の中に含まれている部品に品番が付与されていないなど発生している。

細かな管理に発展すべく必要なことを見通していること

 生産や調達先の変更、生産量の増減への内外製の変更など予見できることへの配慮が昔のシステムでは考慮されず、一方で、修理のための補給部品の品番体系を維持するために大きな部品表の記述ルールを変更できないなどで困っていることも出てきた。それへの対策が根本的であるかどうかが将来に継続利用ができるかの分かれ道になることもある。

BOMとEBOM、、BOMはエンジニアリングデータとはならない

 かつて、設計者と調達との間で取り決めてきたルールは、その後のBOMの活用部署の拡大と共に、BOMへの要求事項が追加され変化してきた背景がある。その経過の中で、謂わゆるEBOMとMBOMの連携についての議論もあった。また、この2つの統一とすべきとの統一BOMの議論もあった。このどちらの議論についても、私は異なる意見をもち続けている。

 まず、EBOMとMBOMと言う名前がおかしい。単にBOMで設計のための部品表で良い。製造にはBOMというものはなく、工程管理システムと呼べば良い。ましてや統一BOMなどはその利用用途からコンセプトとしては考えようがない。工程管理は先に述べてように、内外製の変化、加工工程の変更など、ものづくりの生産性を向上させるために作業の組合せを工程を跨いで行う必要性に合致しないためである。

システムは何故それが必要であるかを明確にして、しっかりと機能を構築すること

 ものづくりで工場が必要なシステムは工程管理(MES)であり、それを実現すれば良い。その工程管理システムとBOMをどのように連携させるかを付け加えて考えるべきである。下位のシステムである工程管理システムをどのようにするかの議論もなく、MBOMや統一BOMの議論は意味のないことだと述べておきたい。

 知識の記録方式を考えるにあたり、ものづくり企業においては、BOMと言う品番や製品仕様のデータと知識データをどのように扱うべきか考えておくのかは大切なことである。次回は、この続きを述べたいと思う。

製造業がDXでつながるデータ構造を設計するには?

業務全体を扱えるようなデータの保管の構造は、前に述べた品質(製品の目的や機能)から派生した構造が良い。この構造であれば、後のプロセスで必要とされるデータ項目との関連性をつけていくことが容易である。これらのデータを見る方法としてものづくり支援システムでは3つの基本画面が必要だ。

 部品の構成から仕事をする人は、部品の構成イメージ図から仕入先や品質項目あるいはその生産工程を求めれられるようにする。

 また、品質の分類から仕事をする人は品質管理イメージ図から関係する部品やそのサプライヤや生産工程が情報検索できる。

 一方、生産工程の分類から仕事をする人は生産工程の関係部品や工程での作業や使用設備、品質規格などをみることができるようにする。

 このような3つの側面からどの仕事をする人でも全体を見て仕事の意思決定ができるような全体最適意思決定を可能にするアプリケーションとなっている。

 部品の構成(BOM)から情報を検索しても、品質(性能)の分類から情報を検索しても、生産工程の分類から情報を検索しても、それぞれが他の分類の該当情報に相互に検索ができる必要がある。このことを可能にするには表の定義と関係性では変化する分類に対して固定化せざるを得ないために、業務変更には向かない。

 システムを開発するときには、個別組織や特定業務の個別システムとなる方が簡単であるがゆえに、限界を決めて構築してきた。本来ならば、企業の生産性を向上させるために、先のような3つの分類(設計、品質、生産)を絡めて情報検索ができる方式の実現を大きな課題と捉えて、解決してこなければならなかったはずである。

 物づくりにおける全体最適なシステムを作るには製品開発から生産までの全体を考えたシステム構築を基本に考えるべきである。それは、直接部門(生産)の生産性を向上させるには管理間接部門の生産性を高めることが必要である。製品企画段階の製品開発初期には全体最適を考えているはずである。それが、開発が進むと関係組織が増え、関係者も増加してくる。そのことにより、単純化した検討や考え方が失われて、部分の難しい判断をお互いに異なる価値観にて議論を繰り返す状態を発生させているのである。

 生産段階に近くなるとますます、部分最適になっていく。製品開発初期段階は製品も品質もコストも考え抜き、生産工程も考え、しっかりと検討する。このフェーズの仕事には全体最適を行うためのデータ項目が存在している。

 生産段階になると部分的であり派生的なデータ項目のみが取り扱われる。これは他のデータ項目は管理上不要になっただけであり、全体品質やコストを把握するには全体データ項目が必要である。

 工場が管理する部分的なデータ項目では生産全体の経営につながるデータの集計ができず、経営の意思決定が遅れることになる。工場の指標と経営指標が連動しないのは、このように上位から下位までのデータの関係性と粒度の変化をしっかりと定義しないことに起因しているのである。

製造業における知識の記録方法のあり方とは

小説家はクリエイティブな仕事だ。それも1人きりで。その物語の構成の作り方や書き方については私は知らない。きっと全てが文字だけ書いているのだろうと想像している。漫画家とは違って絵などが先にあるのではないと思う。いや、漫画家はストーリーがやはり先にあり、文字よりも絵で物語を作るのかもしれない。

 知識の記録方式について考え、書き始めてから、型にはめられたアプリなどのツールでクリエイティブな仕事ができるのだろか?。そしてフォーマットを埋める式の事業計画、ビジュアルな絵ばかりに考えがいくプレゼン資料作成ソフト、文書書式の設定が面倒な文書作成ソフト。これらは、人の思考の集中力を遮ってしまう方法のツールであると思えてならないようになってきた。

 紙の原稿用紙に縦書きで記入するスタイルが、考える事だけに一番集中できるのではないだろうか。文章だけを連続的に書いていく事ができるからだ。文章を書きながら、いろいろ考え、想像して、仮説を考え、検証する。そのプロセスそのものを文に表現することで、適切な言葉を選択し、文の流れを決定する作業に没頭できるからだ。本来、誰でも邪魔されずに、自由に文章を書きたいのだと思う。

 人が思考を記録するには、文字だけを形式にとらわれず、自由に書く方法がよいだろう。そこにはフォントやそのサイズ、色などの装飾に気を取られないことが気楽でよい。書くことにおいても単純化されている方がストレスがなくて良い。人はいつのまにか単純な世界を複雑化し過ぎて、そのことに対して、本当に面倒なことなのに我慢していることに気づいていないのではないかと思う。

 前号のものづくり企業における、人と組織による仕事の複雑化の問題とも似ている。複雑化している組織に気づかず、組織間の仕事に手を出さない傾向があるのではないだろうか。このようなことが企業の中にはびこると、決定される結論はおかしなものとなる。

 人はもし万能であれば、一人で仕事をすることが一番生産性が高くなるだろう。人が複数人になれば、ものごとの決定に時間がかかり、その決定されたことも、ゆがんでくるかもしれない。企業も一人で運営するのが最高の生産性になるのだろうと思う。したがって、情報システムは、多くに人で構成された企業でも、あたかも一人で運営されているようにできないものか。

 小説家がたった一人で大作を完成させるように、自由に書くだけで、企業の業務意思決定を行う方法を研究している。それえはテキストを書くだけの方法が単純化していて良いのではないかと思っているがどうだろうか。