製造業のための技術検索システムが必要だ。

検索システムの開発が必要ではないかと考えている。商業用途に付加した検索システムでは、知識を獲得したい知的好奇心の人には満足できないと思う。今は、そのようなツールが無いので、仕方なく商業用途の検索システムを使っているのだと思う。そうではなく、知りたいことを知ることができる検索システムというものは無いのだろうかと思うのである。

 このまま不必要な情報が膨張していき、その中にほんの少しだけの考えることに必要な知識が埋まっている状態が続くならば、この検索システムはどんどんと使えないツールになっていくような気がする。

 商業用途と学習用途に検索システムが分かれている必要があるのではないだろうか?そうすれば、子供にも学習用途で使って貰えることができる。商業用途であると儲けたい人が子供向けにはふさわしく無い広告などをWebに登場させる。これは、きっとイタチごっこで、今後も完全に排除することはできないだろう。排除しようとする倫理観は、儲けようとすることと明らかに異なる立場であり、対局にあるからだ。
 
 本来、学習用途の検索システムが存在していないといけないのだと思っているが、そのような動きはあるのだろうか。商業用途の中に構成すべきものとは思わない。
では、学習用途の検索システムは誰が開発すべきなのだろうか。それよりも、誰が開発できるかの方が問題のように思う。

 学習用途の検索システムを開発するには、検索技術ということが問題になるのではなく、学習とは何か?どのように人は学習しているのか?などの知識獲得の仕組みについて探究している人が適切である。ユーザーが開発すべきである。それはは誰かという問題であると思う。情報システム企業に丸投げすることで完成するとは思わない。

 たぶん、大学や企業の中のデータは学習用途に適する情報がいっぱいあると思う。そして、そのような情報から利益を得ようとすることから、商業用途の情報に全く内容が変化しているのだと思う。

 したがって、大学や企業における学習用途に適する情報を外部の検索システムに登録されれば、商業用途の検索システムと別な情報蓄積のネットワークが構築できるだろうと思うのである。

 ものを売り買いすることと、知りたいことを知ることは別な欲求である。少なくとも前者は金銭が伴う。後者は研究の意欲が伴う。後者には、科学、社会、歴史、文学、数学、、、、あらゆるものが対象である。wikipediaがやっているようなことを外部に切り出し独立化して欲しいのである。その上で、検索システムを作ることができれば良い。明らかに検索処理は異なる方法となるだろう。知識の記録方式もこれまでとは異なるものとなるだろう。来年は、こんなことをもうし少し考えてみたい。

製造業のデータ検索は人ではなく技術を対象にすることが重要です。

知識の記録方式において、記録した知識をどのように検索するかは重要なことである。見つけることのできない記録など意味がないことである。現在のホルダー名称、階層、ファイル名における問題とファイル形式や、ソフトウエアの違い、保存場所の違い、OSの違いなどによる問題とソフトのバージョンアップによる過去バージョンのデータの互換性の問題などの解決方法を考えなければならない。

 更に、検索の方法そのものについても、解決しなければならない。それは、現状の検索ツールを使っても、欲する情報を得ることができているかという点では、不満足である。欲しない情報が混ざっている。検索結果が膨大であり、その表示順番はユーザからみて、コントロールできないことなどである。結局、探すことに多くの時間とストレスを感じているはずだ。私もその被害者である。

 少なくとも、自分で作成したデータはすぐに見つからなければならない。企業の中でも、欲しい情報はすぐに必ず見つからなければならない。このことに対して、行っていることは、ホルターとファイルの名前の付け方の工夫に依存している。そして、ファイルを開かないとそれが欲しい情報であったのかが確認できない試行錯誤作業を繰り返している。この方法からの脱却が必要である。海外との共有にもファイル名が理解できないという問題がある。

 異なる経験を経てきた人達であっても、誰でもそれぞれが欲する情報を見つけることができることができなければいけない。そして、更に、自分では当たり前なことだと思っていたことが、そうでないことが気づくとか、知ることができるとか、見えていなかったことを知ることができるなど、このようなことが実現できなければ、知識を記録した価値が生まれない。知識の記録方式はその情報を活用できて初めて価値として認識される。

 人の記憶をうまく利用しながら、検索の方法を考えることが現実的な方法だと考えています。検索だけで、単語だけで、本当に知りたいことを見つけることができないのは分かっている。その単語すら忘れてしまった場合にどうすべきかに関心を持たないと活用ができない知識の記録方式になってしまうだろう。そこで、人が記憶できていること、それも誰でも(殆どの年齢層の人が)記憶していることを用いて、知識を検索する方法が良いだろうと考えている。ある点では、心理学的な研究成果を利用することが有益だと思っている。

 このようなことを考えて、知識の記録方式の開発を進めていきますので、今後とも、引き続き宜しくお願い致します。

考えることを放棄しない社会に

人は考える葦であるとは古い言葉である。最近、この人、本当に考えているのだろうか?と思ってしまうことが多い。正々堂々とした意見をみんな言っているだろうか。言われた側も、それを真摯に対応しているだろうか。見ざる言わざる聞かざるでは、この国の将来はどうなるのだろう。皆が面白いと言ってくれるなら、何をしても良いのか?そんなことはない。

 予測を外れた挙動や行為に直面した場合に、人は驚く、呆れて、そして忘れるようになってしまったように思う。何でも法律は裁けない。そんなことは山のようにある。そして、法律が予測していること以外に多くの予測していない事例が起こっている。

 新型コロナウイルス対策もその一つ。もうじき一年になるが、まだ、行動を自粛することしか言えないって、おかしいと思う。科学的分析に基づく対策が具体的に10も20も述べられていなければいけないはずだと。飲食規制や行動規制という、誰でも言えることしか言い続けていない。その一段下の具体的なことを聞きたい。だから、考えているのか疑わしくなる。

 日本は貧困者が多いと言われている。彼らに手を差しのべるボランティアがいるのは嬉しい感謝したい。しかし、この問題を誰が真剣に考えているのだろうか?。それが具体的に見えない。それが苛立ちとなっている。つまり、誰もが言うような一般論ではなく、具体的にどう対策をしようとして、それにどのように取り組んでいるのか、どのように効果が出ているのかを社会の人は知りたいのである。責任者の顔が見えないのである。

 どうも表層的な議論に終始して、一向に深掘りする議論にならないのは、国も企業も社会も共通のように思えてならない。考えることを放棄していては、展望が見えないままになってしまう。

現在、もっと真剣な議論が湧き起こるべき環境下に私達はいるのではないだろうか。youtubueの笑いに逃避していてはいけない。若者はもっと、真剣に問題を指摘して討議すべきだと思う。それは自分達の未来の為になるからだ。諦めてはならない。

 考えることはお金はかからない。原理原則に立ち返って、見えていない、そして発言できていない言葉にしてみたら良いと思う。少なくとも言語に表現されなければ、皆に共有されない。世の中は、具体的な対策の言葉を待っている。

 私も長く生きてきた。もっと若い頃から考える習慣を身につけていれば良かったと思う。会社員であることが生きることではないのは皆が分かっていること。しかし、その仕組みや仕掛けの中に身を置くしかないこともあるだろう。

それは仮の生き方と思っていないと飛立つタイミングを逸することになる。考えない葦にならないようにしたい。10年後には、あらゆる価値観が変化するかも知れない。

絵に情報を書き込む知識の記録方式とは

パンフレットは絵と文字で作られている。絵は記憶の忘却を減らす効果がある。印象も残るからだ。看板も雑誌の表紙も絵と文字で埋められている。このように絵と文字は人に何かを伝える場合の標準構成だ。

 絵と文字を用いて、そこに書かれていないことを連想させることが知識の記録方式として良いのだと考えている。時間軸のあるものは、その絵と文字を入れ替えれば良い。

 絵や文字はそれぞれ、絵や文字と関係性を持つ。このようなことが知識の記録方式として実現できれば良い。

 絵や文字の検索を確かなものにするために、絵や文字の親の絵や文字を定義できるようにする。最初に決まっている必要はない。人の思考は後で分類を決めたるのが都合が良い。

 絵や文字の親の絵や文字から検索を的確に行うために、全体を全文検索の対象とする。その結果の選択は心理学にあるように、欲しい情報の絵を人が見つけることとする。それを指定することで、その以下のデータ関係性の中に、必ず欲しいデータがあるようにする。

 欲しい情報には感動的な表現を付与する様にする。喜怒哀楽についてのタグを持たせる。感動を持ちながら、人は仕事をしているはずだから。感動に結びついて記憶は忘れにくい。思い出しやすい。この関係を検索に含めることができるようにする。

 見つけた情報には、知らない情報も参照関係として付与されている。その付与された理由whyもテキストで記録されていること。それにより、今の自分に必要かどうかが判断できる。そして、記憶にもその知識が一時的に記録される。

 絵や文字には添付ファイルを保存できる。この時、絵や文字の添付ファイルに変換し、参照関係をセットできること。

 以上を特徴点登録法を用いて特徴点に区分を定義することで、組織、機能、役割、目的、現象などの情報を座標点に多重登録する。

 絵や文字は、全体を表現する構造的な図にすべきであり、業務ならば、その業務の最終アウトプットである絵や文字により、その絵や文字の中にその全ての情報がネットワーク的に記録されていることを誰もが認識できる対象を用いることが重要である。

 以上が、これまでの知識の記録方式についての具体的ニーズから抽出される基本的要件である。

製造業は今の業務プロセスを正しいのかを確認する必要がある。

予め予測することは、社会において避けて通れない手続きである。いつからであろう、TVで企業のトップによるお詫びの謝罪会見が始まったのは。いつも決まって黒のスーツを見にまとい、頭を垂れ説明するが、そのことで問題は解決することはないのはみんな分かっている。

 ここ20年位の間、このような謝罪会見が増えているように思える。個別の事例を出して批評するのが目的ではないので、踏み込んだ意見は述べるつもりは無い。ものづくり企業だけでなく、保険会社やサービスの企業の例もある。何故、このような問題を起こし、それをどのように再発をしようとするのかは他山の石とすべきである。どうだろう、事例集を公開して、その再発防止策を皆の知識にしてみないか?

 発生した問題は、ずっと何年も前から行われていたことが多い。組織の誰かは気づいていたか知っていたはずだと思うことが多い。どうにもならない状況になって謝罪会見に及ぶということは、それ自身が問題である。でも過去のことは責めても過去に時を戻せない。執拗な追及はなされない。おとなであるからだ。

 組織は人で構成されて、役割を分担して機能するものであるから、どこかを個人の責任に任せなければ、生産性は向上しない。個人を信頼して、問題を未然防止する予見力をどう仕組みにするかは重要なことである。チェックばかりしていては、物事が進みにくい。何もチェックしなければ、ミスが起こる。業務プロセスの中で、どのようなタイミングでチェックを行い、そのチェック内容などは標準化される必要がある。

 人はミスをするものだという原点に立ち、個人の責任としないように、どのように、どのようなタイミングでチェックを行うのかを決め、チェック結果を皆で確認し合うことが必要である。個人に反省を求めても失敗する風土は治らない。

 上司が時間が無かったので、チェックが行われなかったと言うことのないように、スケジュールに自動で組み込まなければならない。人はミスをする前提で、企業は、どのような仕組みを持っているかを説明できるだろうか。働き方改革とは、このような仕組みをまず先に作る事だと思っている。オフィスのレイアウトやPCの整備などの形式主義では何の為の改革なのかと疑いたい。

 世の中のいろいろな事が形式主義で済まされているようなら、それは改めなければならない。そして、その主義に慣れてしまっているならば、私達自身の頭を元に戻さなければならない。

IT関係に長くたずさわっていると、道具の導入だけになってしまう企業が見られる。ITを仕事に生かすには、ものではなくコトをどうするかであり、一番重要なことは、社会的責任を担保できる仕組みになっているかどうかである。人はミスをするのだという原則に立って、予見できる仕組みを保有すべきだと思う。

 予見ができる仕組みを構築するためには、業務プロセスと判断ルールが標準化されていなければ難しい。判断結果は共有され、判断に関する皆の意見も共有記録されなければならない。要するに企業の業務知識がIT化されていなければならない。