製造業のDXを進める上での考え方

昨今、世の中が複雑だ。複雑化しているということが良く言われている。答えを見つけようとすると、答えが出せない時に複雑なのでと言われるようだ。それは本当に複雑な問題なのだろうかと疑うこともたびたびある。

 複雑だという時には、解きたい問題に対して必要十分な関係性が明確になっていないことを表している。関係性を明確にしようとの努力がなされていないこともあるだろう。関係性そのものを言葉でも表現できないこともあるだろう。表現することができるが、その関係性を提示することは自分の役割だと思っていない場合もあるだろう。

 昔は複雑ではなかったのだろうか。多分、多くの人は、昔は単純であって、それに比較して複雑化している様に思っているのだと単に思っている。では、昔なら、今解決したいことが解くことができたのかと言えば、それはノーである。

多岐に渡る関係性を議論しないと解けない問題が多く出てきたということだろう。その問題はずっと昔からあったが、それを問題とすることを皆が行わなかったからではなかろうか。

 では、何故、昔からある問題を、今日取り上げなければいけなくなったのだろうか。問題とするかしないかは、個人、企業、社会、国、世界としてどのくらいの重要性として認識するかであり、この単位でバラバラに述べられる意見では問題として認識し合うことは難しい。

それぞれの価値観の異なる集合と異なる単位との関係で問題であるとの合意ができない。誰かが、この問題はこの単位の中で合意と解決をすべきことだと言い切らなければいけない。個人と企業の単位では明確に言い切る責任者がいるが、どうも、その外側にある社会という単位になると怪しくなるのがこの国の問題でもある。

 このような集団の単位についての問題認識の要因の他に、複雑化させている原因に、行きすぎた管理の細かさがあると思う。もっと粗く捉えていても十分に何を成すべきかが分かることが多い。データの項目をどんどん新しい項目を追加するばかりでは、複雑化するに決まっている。

データを入力することが仕事と勘違いされてしまう。ある意味、デジタル化の弊害だと思う。真にデータの項目が企業の中で関係組織との共通認識が有るように位置付けられているだろうか。

個別に構築されたシステムをたくさん保有している企業の問題は複雑化していることが問題ではなく、企業内の活動指標の不明確さが問題であるのだと思う。もっと原理原則に立ち返り、単純化して考えるとシステムの取捨選択はできるはずだ。そして余分な業務は廃止できるはずである。しかし、このようなことを考え行動するIT部門がいないのは更に問題なのである。

 加えて、組織間連携に穴のあるデータ項目がある。これは前後工程の業務が孤立していることとなり、その連携に人が関与していることになる。労働生産性が低いのは、このようなことを長年、放置しているからだろうと思う。

余計なデータに振り回され、それでもデータ間の連携ができないならば、当然の結果である。どうも日本の業務はプロセスを管理していないように見える。プロセスを管理するならば、このような矛盾や余分なことによる複雑化にはならないだろう。プロセスを管理しないならばIT技術は生産性に寄与することは無いからだ。

 単純化し、システムを作り直した方がスッキリとするのではないだろうか。過去の複雑性を引きずっても、そのうちに破綻するように思う。自社のシステムは自社の手で構築するしかない。

いつのまにか部分的機能のシステムを購入し続け、結果として複雑化になっていることを直視した方が良いだろう。DXは要注意。複雑化の上に構築しては重しのようになるだろう。業務のシステムは改廃が当然。

基礎に知識のシステム化が必要であるはずだ。しかし、そこに複雑化を好むシステム屋に外注化することは投資と工数の無駄遣いになるのではというチェックが入ることを願っている。

私達の仕事はITを用いて進めるように求められている。それを実現できるのは自分自身や自社自身だけであることにもっと責任を持ち考えることから逃避しないことだと思う。

地図から学ぶ歴史と文化と思想は知識の記録方式の良い活用例

歴史を学んだのは高校生の時で最後であった。その後は歴史小説などを読むくらいで、歴史ということをじっくりと考えたこともない。最近になり、過去にこんなことがあったのかということを知ることがあった。それは50年位前の事件であった。その頃は中学生であったにも関わらず、私の記憶には何も残っていなかった。

 印象の強かったことは、記憶に残るものだ。喜怒哀楽というか、喜びや憎しみ、成功や失敗を強烈に感じたことは忘れないものだ。一方で、自分には関係のないような過去の史実は学生の頃、勉強で丸暗記していたが、これらはほとんど記憶から消えてしまった。当事者として関与していないことは記憶に残らないものだ。

 今現時点のことも数秒後には、過去のこととなっていく。過去は時の経過と共に着実に作られていくので、記憶しようとするならば、増え過ぎてパニックになってしまうだろう。人は適当に物事を忘れていくから、新しいことを少しは覚えることができるようだ。

 重大な自分の喜怒哀楽については、これからも忘れることはないだろうと思う。これは何故なのだろうか。体験することは記憶に残りやすいということなのか。何百年も前の歴史は体験ができないので、どうしたら覚えることができるのだろうか。

学者の方々は歴史上の人名なども、ものすごい知識を披露してくれる。体験していないことを、何故記憶できるのだろうか。仮説として、試験勉強のような丸暗記ではなく、人物の行動、思想、意義などの内面的な事柄を、当時の社会環境、勢力圏、生活様式、文化などとからめて、自分の推察を論理的に組み立てようとするからではないかと思う。自分ならどう対処しただろうかなど体験をしているのだと思う。

 論理的であろうとすればするほど、未知のことに気づき、そこを深堀していく。そしてまた、分からないことを知ろうとし、理解の範囲を広げていくことが脳の体験となっているような気がする。人は考え続けなければいけないのだと改めて思うのである。

 歴史を記録するには、その時代の地図が絵となり得る。主に歴史は人の行動の結果である。どこに居たのか、どこに移動したのかなど、地図上に行動を表現するれば良く記憶に残ると思う。地図による歴史の勉強の仕方として、もっと若い時に気づいていれば良かった。

地図は時代と共に変化してきた。人の行動と地図の変化の背景・理由(why)を考えると面白い学び方ができると思う。教科書はそのようなことを促してはくれなかった。これからの歴史の勉強は、地図の変化の裏にある何故をいろいろな角度から調べ直すようなことが良いのだろうと思う。

 過去の思想と結果を理解して、人間の欲や過ちや感動的な良さなどを知ることは宗教にも通じて、科学にも通じ、学問の境界を超えていくことになるだろう。世界地図を机の上に置きものごとを考える。

その世界地図は過去の時代の代表的な国の区分が必要。これがIT技術で解決すれば良いだけである。それを使って、どの地図のどこからスタートしても良い。学問には境界がなく、知的好奇心と倫理観があれば、インターネット上の情報にも惑わされずに過去の歴史から思考することができるようになるのではないだろうか。

もう、小生は残念であるが、気がつくのが遅すぎた。

勘が良い人の習慣とは

あの人は勘の良い人だと人から聞くことがあるだろう。勘が良い人の習慣とはここでの勘の良いとは、裏か表かを当てる勘ではない。2者択一のようなこと柄ではないく、そこに提示されている選択肢は何も無い状態の中で、例えば、明日から何をすべきかと言う問いに、これをすべきだと言う人であり、そのことは周囲の人達にはピントこないようなことであり、しかし、数年経って見ると、言われたことが社会での議論に取り上げられていて、勘の良い人が発言したことが正しいとの認識になっている。このようなことを言える人のことを勘の良い人だと思う。

 このような人はどんな思考訓練をしてきたのかついて考えてみたい。まず、そもそも答えの無いテーマを常に探している習慣を持っていることが必要だと思う。インターネットで答えの無いことを確認してから考えることを始めるべきだ。インターネットにその答えがあるのでは、どんな良いことであっても考える楽しみがない

 とにかく興味を持って毎日を過ごすことだ。一つのテーマを何ヶ月も考え続けることが必要である、暇な時間が持てないとこんな生活は難しい。だから、自分が自由に使える時間が持てる職業につく必要がある。すぐには難しいが、そのような考える生活が出来るようになることは自分にとって幸せだと思うなら目指すと良いと思う。

 TVのニュースなどを聞いていても、すでにその情報はインターネットで流れている。それについてコメントや解説が行われて既に古新聞を読んでいるように思う。インターネットで情報を得るなら、TVはいらない時代になっている。

 コロナ禍の今年は、TVが創造的でなくなった。現場に人を集めて作り上げるような番組が減った。増えたのは、クイズ、解説番組など面白く伝えるものが多く、飽きられてしまわないだろうか。コロナは創造性の機会を奪っているように思える。

したがって、人は自分一人で創造性を発揮することが必要になっている。自給自足も良いことだ。このようなことによって、企業という集合が、その人同士の繋がりを柔軟なものに変更しなければ、社会の柔軟化に遅れをとる事になる。副業を認める企業が増えているのは柔軟性の表れであろう。

 あと10年も経つと多くの企業のサイズは小さくなっていてるだろう。一方、中小企業はできるもの同士は結合するし、そうでない企業は、個人企業化するだろう。個人事業主はもっと増加し、個人企業や個人事業主はプロジェクト毎の自由な連携により、ビジネスを進めていくようになる気がする。多くの社員を抱えて大企業として存続するのは、自動車くらいしかないだろう。それでも規模は小さくなるはずだ。

 今でも生きることが難しく、10年後など考えていられないと言うのも理解できる。もちろん今は、今の問題を解決すべきである。しかし、10年後に、自分はどうしているべきか、どうあるべきかを考えることは自由であり、何を生業にしても良いと言う時代になっているはずだと思うことだ。

大きな会社、有名な会社という価値観はなく、社会に役に立つことが硬直化することなくフレキシブルな形態と思考で実行されていることが必要だ。

 できれば、今から、まずは、メモを書き、そのメモ群を縦横斜めに考える習慣をスタートすることを勧めたい。勘が良かったということになるように。

絵が伝達する全体像の価値とは

美術館に行くことも好きだ。なぜかと言うと、時間を忘れることができるからだ。嫌なことも忘れて絵画を見ていられるからだ。映画では、そうはいかない。美術館で絵画を眺めていると、以前は、どのような筆づかいなのかや、色彩や構図が気になっていたが、最近では、ぼやーっと眺めていることができるようになった。それでも、その絵画の時代や画家の経歴などの解説は絵画の理解に必要である。

 絵画だけ見ていても画家の名前が分からないと何故か記憶に残せない不安を感じるのは私だけであろうか。絵画だけを見て楽しめるようになるには、まだまだ沢山の絵を見ないといけない。絵だけ見るだけでは、その絵についての無知が故に、充実感が足りない。絵と解説が私には必要で、そうでなければ、自分の満足感が得られないように思う。

 絵は比較して見るものではないと思う。それぞれが独立している芸術であり、1枚の絵だけにぼーっと眺めているだけで良いのかも知れない。有名な絵画の展示があると大変多くの人が絵の前に密集し、数秒でその前を立ち去らなければならないようなことは何故起こるのだろうか。

ルーブル美術館などは、もっとゆったりと鑑賞できるのに何故日本の美術館はこうなのだろうか。展示物の多さと、展示会場の広さが、ゆったりと観れる時に観れば良いと言う余裕を与えてくれるのかも知れない。

 絵画を見るが写真は撮らない。昔は撮ったこともあるが、それを持ち帰って見ても何か感じるものがない。その時だけモニターに写っているのを見ても、単なる映像にしか感じない。絵画を見ている気にならない。

 もう一つの場面として、私は有名な画家の絵画の中で印刷物を額に入れ、自宅の廊下などに飾っている。これは、すごく満足感がある。気に入った絵は、いつでも眺めることができる場所に置いておきたいのだと思うからだ。だから、パソコンの電源を入れて、さあ見るぞ!という心理では絵画は楽しめない。いつも近くで見えていて欲しい存在だと思う。

 今はあまり見ることがないが、どこかの局で、アートシーンという番組があった。これはTVの番組で、美術館の中の絵画を、ゆったりとした口調で、強制的ではない感想を主に柔らかに語るような解説が気に入って見ていたことがある。これは、一緒に美術館にいるような気分になるから心地良かった。

 本物であることの美術館。是非、一度でもいいから見てみたいという欲求が強い鑑賞。本物ではないが、気に入って物を近くにおき眺めていたいという満足感でのいつでも鑑賞。TVや動画による解説付きの絵画を見て、知的な好奇心による知りたい鑑賞があるが、絵が好きではない人にはどうでも良い話ですね。

 人は行動しなければ、何も始まらない。しかし、行動の前に、興味や関心を持たねばならない。興味や関心を持つには、どこかや誰かから、情報を得なければならない。私達は活字よりも目による映像の方が日常的に情報を得る比率が圧倒的に多い。

目による情報として、全く同じ絵を見ても人によって感じ方やその後のアクションは異なっている。そして、この感じ方は、それまでにその人が経験したことにより大きく違ってくることも事実だ。

 どんなことも絵に表現されると分かった気になるし、他者に説明し伝えることができると思う。シリコンバレーのある企業で、目的や課題と解決手段などのストーリーを漫画のような絵によって作成する専門職の人を見たことがある。議事録がその場で大きなシートに漫画のように絵で描かれていくのである。絵が伝達する全体像の価値とはここにあると思った。

 見た映像は一番行動に結びつく。絵を中心とした生活を、これからもっと意識していくべきだと思う。

旅の記録への写真による知識の記録方式の活用

コロナが蔓延し、今年は旅に行くことができなかった。毎年、4ヶ所くらいは旅行に行くことにしてきたが、ほとんど家の中でじっとしていた。

 旅に行く前に移動の電車、飛行機などの時間を調べ、行きたい場所の計画や宿泊先を考えるのがまず第一の楽しみである。そして、その計画に沿って、旅先の景色を撮影する。その時の感想などやそこで見つけて店や土産、食事などを写真に撮り、私は自分の開発したアプリに登録している。正確にはいたのである。実はIphoneアプリを開発販売していたが、現在は次の設計仕様を検討中の為、サービスを停止している。

 地図の上に旅行の計画と実績を記録していた。どこで何をして、どのくらいの時間滞在して、どのような感動を得たのかを日記ではなく、そして写真集だけではなく、体験を記録したいと考えた為です。

 最近では簡単にスマホの画面をTVに映せるようになった。単にスライドショーを見ていても面白くないので、その道中の中での感動を文章でも絵と一緒に共有できるようにしたいと思った。私が居なくても伝えられるように。

旅行雑誌の個人版のようなものである。これが思いの外、多くのことを思い出すのに有効であった。あの時、時間が余ったので、ふと立ち寄ってんだなということまで思い出させてくれる。これはどこで撮った写真だったかということもなくなる。

位置情報も記録できると良かったなどシステムを自分で開発できると、新しい利用用途を生み出すことができる。ここでも、絵と感動と連想という曼荼羅の機能が有効であることが良くわかったのである。

 これは、文章、写真、地図、情報、時刻などがそれぞれ異なるアプリにしか記録できないことに対して、私が考える一つの提案としてのアプリケーションであった。あまり積極的にも宣伝をしなかったことと、実現したいことの表現を試行する研究目的であったため、その役目を終えた段階でアプリの配信は停止してある。

 この知識の記録方式の投稿により、広範囲なニーズや実現機能などを整理することができているので、全体的に満足する思考結果になった際には、改めて、ソフトウエアの販売を開始したいと思っています。